1941年,日本,27分
監督:亀井文夫
撮影:白井茂
音楽:大木正夫
出演:徳川夢声(解説)

 「信濃では 月と仏と おらが蕎麦」という一茶の句に続いて、その句から思い起こされる長野県の、主に農民たちの生活を映していく。
 この映画は長野県が東宝に委託して作った観光PR映画「信濃風土記」シリーズの2作目として作られた。戦争が終わり、ようやく戦争物から離れることができた亀井文夫はこの作品で軽妙な語り部としての才能を如何なく発揮している。これが長野県のPRになっているかどうかはともかくとして、小林一茶について描いたものとしてはかなり面白いものであることは確かである。

 とても、短い映画なんですが、内容はなかなか濃いというか、小林一茶と生まれ故郷の長野の関係をしっかりと伝えている。そして長野県の土地の貧しさや農民の苦労を伝えている。だからこれを見て長野県に行こうとは思わないけれど、一茶には興味を持てる。
 さて、この映画は一茶の句をキャプションとして、それで章を区切って一茶の生涯を語っていくわけですが、その一つ一つの断章はある意味では一つの句の解釈になっている。わたしは俳句のことはほとんどわからないんですが、その解釈はおそらく一般的なものとは違う。終わり近くに「やせ蛙 まけるな一茶 ここにあり」という句を出して、露害にやられた農民の姿を映す。そして、もう一度、今度はクローズアップで句のキャプションを出し、続いて農民のクローズアップを映す。このあたりの喜劇的なところも感心するが、その解釈の仕方にも感心する。喜劇的といえば、映画の最後に一茶の四代目の孫という人物が出てきて、「俺は俳句を作らないが米作る」といったところではなんともいえないおかしみが漂った。(その人が小さな一茶記念館「のようなもの」をやっているというのもささやかな観光PRっぽくって面白かったが)

 この映画のいいところは、一茶の句の力強さを認識し、映像がそれに勝てないことを前提としている点だ。一茶の句と拮抗する形で映像を提示するのではなく、一茶の句を広げる、あるいは句の余韻が残っている中で、それを映像で補完する、そのような作り方をしている。
 俳句と映画という意外な組み合わせがこんなにも豊かな映像作品を生み出すというのは、作家のそんな謙虚な姿勢があって初めて可能だったのだろう。

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