古ぼけ、ガランとした家にやってきたひとりの女、実はそこは気仙沼市にある実家で、はからずも同じ日に3姉妹がやってきて15年ぶりの再開を果たす。しかし、長女はいきなり眠りこけ、次女と三女は長女を心配しながらなんとか過ごし始めるが、15年の空白はあまりに重かった…
小林政広監督が3.11後に居宅を持つ気仙沼市高桑町を舞台に描いたドラマ。
ガランとして水も電気もガスも止まった家、その家にひとりの女が訪れ、そこにほかの姉妹がやって来る。まず印象的なのは、長女が家の中に入ったところから始まる非常に長い1カットだ。固定カメラが台所と和室にカメラを振りながら、おそらく30分以上の長さを1カットで追う。
1カットというのはあくまでも撮影上の問題であり、それが必ずしも映像に独自性を生むわけではない。しかし映画のリズムは1カットの長さによって刻まれるのが基本であり、観客も意識的でなくともカットの長さに心象を影響されている。その1カットが30分以上の長さになると、そこに段々と緊張感が漂ってくる。そしてその緊張感は姉妹の間の緊張感にシンクロし、確実に映画のムードを作っていく。
そして、もう一つこの長い1カットから受ける印象は「舞台っぽい」というものだ。30分以上にわたって場所は動かず、登場人物は3人だけで、基本的に会話によってドラマが成り立っているという要素がそうさせるのだ。そして、その印象はこの映画全般にわたって感じられる。
映画としてはその要素はリアリティを削いで少し邪魔という気もしなくはないが、3人という閉じられた関係を描く上では心をさらけ出す形式としてはアリなのかとも思う。というのも、姉妹が15年ぶりにあったら、いくら姉妹といってもそうそう相手のことを理解することはできないし、簡単に再び心を開き、自分のことを告白するできないと思える。しかしこの映画はそれを3日くらいの間にやっていて、そこに現実味をもたせるには舞台っぽさが逆に役に立っているように思えるのだ。
要するにこれは、決して本当のリアルではない。彼女たちは自分をさらけ出しているようで、実は自分の弱さや傷を少しずつ見せていくことによって、悪い言い方をすれば相手を操ろうとしている、そのようにも見えるのだ。
100分ほどのこの映画は、そのほとんどが非常に緊迫したシーンで構成されている。崩れそうになる心を描き、噴出する感情を描き、理不尽さへの怒りを描き、無理解へのあきらめを描く。そのひとつひとつはすごく「わかる」。「こういう人っているよな」とか「こうなるんだろうな」とついつい考えてしまうような会話が次々に出てくる。しかし、最後の最後で3人が笑うシーンがある。その笑いの意味はぼかされているけれど、この笑いだけは本当に彼女たちの心のそこから出たものなのではないかという気がしたのだ。それが何を意味するかは、見る人によって違うと思うが、私はこの笑いによって3人の緊張感が解け、15年という時間の空白を乗り越えることができたのではないかと思えた。
この映画は震災後の気仙沼を舞台にしているわけだが、直接の被災者でなくとも私たちは震災によってどこかに緊張感を抱えながら生活することを余儀なくされている。その緊張感は普段は気づかないんだけれど、蓄積していて、それが解ける瞬間にわーっと出てくる。この映画の最後で彼女たちの緊張感が溶ける時、私は自分の中に溜まっていた緊張感の存在をふと思い出した。この映画で解放されるということはなかったけれど、それをまたどこかで解放しなければならない、そのことに気付かされた映画だった。
2011年,日本,101分
監督: 小林政広
脚本: 小林政広
撮影: 西久保弘一
出演: 中村優子、渡辺真起子、藤真美穂
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