1970年代、コロンビア大学のハーバード・テラス教授はチンパンジーが人間のように言語を覚えられるかを研究するため、生後2週間のチンパンジーを元教え子のステファニーの元で育てさせることを考える。ニムはステファニーの元ですくすくと育つが、放任しすぎて研究にならないと考えたテラスはニムを訓練に専念できる環境に移し、研究を続けるが…
70年代に「手話ができるチンパンジー」として有名になったニムの生涯を資料映像と関係者へのインタビューで構成したドキュメンタリー。いろいろモヤモヤ。

70年代という時代には今からは考えられないような動物実験がいろいろ行われてきた。ワイズマンは74年に『霊長類』という作品でその実験の最先端を観察したドキュメンタリーを撮った。そのような状況を踏まえた上で、現在の目からこのニムに対する実験を見つめてみたらどうなるか、それがこの映画の眼目だ。

誰もが勝手にニムが感じたり考えたりしていることを推し量り、「彼はこう思っている、だからかわいそうだ」とか「彼はこう感じている、だから幸せだ」と勝手に言う。同じ事柄についても関係者それぞれの考えは異なり、そこに行き違いが生じている。これは、端的に行ってしまえば、結局のところ人間とニムの間にはコミュニケーションが成立していなかったということだ。人間がそれぞれ勝手にニムの表情や手話を解釈し、それを人間に置き換えて自分なりに理解するという一方的な思い込みが行われているだけなのだ。

しかし、考えてみると、そのような行き違いはチンパンジーではなく人間を相手にしているときでも頻繁に起きる。いわゆるディスコミュニケーション/ミスコミュニケーションというやつだ。人間とチンパンジーの違いは人間の場合はその行き違いを正せる機会があるということだ。この映画を見る限り、ニムとの間で過去の行き違いについて話し合うことはできないようだから。

それによって何が言いたいかというと、この映画に登場する人間たちの大部分はそのことに気づかないか、あえて気づかないフリをして自分の感じたことこそが事実だと信じ込んでいるということだ。そこに異常な違和感を感じた。

そんな中、オクラホマに戻ったニムはボブに出会う。彼は人間とチンパンジーの違いを把握するべきだといった上で、ニムとの間に友情を築こうとする。そして実際にある種の友情がそこに成立したように見えるのだ。それは、ニムのチンパンジーらしい部分はそのままにしておきながら、ニムの人間に近い部分だけを受け入れてその部分とだけコミュニケーションを取ろうとしているからではないか。それは人間同士のコミュニケーションにも通じる。人間同士のコミュニケーションでも相手を全的に受け入れることはできない。人は相手について自分の知っている一面のみを受け入れてコミュニケーションをとるのだ。

ボブ以前の人間たちは自分がニムの保護者になろうとするあまり、ニムを全的に受け入れようとしてしまう。それによって思い込みがおき、深刻なミスコミュニケーションが起きてしまうのだ。

その原因は最初にテラス教授がステファニーに「人間と同じように育ててくれ」といったことにあるのは明らかだし、テラス教授は周りの人たちに悪口ばかり言われているわけだが、それでも彼も悪意があってニムの人生を踏みにじったわけではない。彼の科学者らしい冷徹さがニムと人間関係を築こうとしている人たちには受け入れがたかっただけだ。

わたしはこの映画を観て人間たちにすごくモヤモヤした。ニムの境遇がかわいそうだとかそういうことよりも、この人間たちが何を考えているか判らなくて得たいが知れず不気味だったのだ。しかし、ここまで書いたように考えてみると、そのモヤモヤの核にコミュニケーションの問題があることがわかる。そして、コミュニケーションから映画を読み解いていけば、モヤモヤという映画と観客の間のディスコミュニケーションは瓦解し、そこにある問題が見えてくるのではないか。

動物虐待についての映画と思ってみると、多分つらくて哀しいばかりだが、コミュニケーションをテーマにしてみると、自分自身のこととしても考えることができるのではないだろうか。そんな風に世界の人たちがわが身を振り返り、人とのコミュニケーションについて考えられるなら、ニムの決して幸せとはいえなかった人生も少しは救われるのではないかと、人間らしく勝手に思い込んでみる。そんな思い込みで人間は救われるのもまた事実かもしれない。

2011年,イギリス,99分
監督: ジェームズ・マーシュ
撮影: マイケル・シモンズ
音楽: ディコン・ハインクリフェ
出演: ステファニー・ラファージュ、ニム、ハーバート・テラス、ボブ・アンゲリーニ、ローラ=アン・ペティット

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