宮崎アニメで気になるのは、プロではない声優が主人公になると、どうにもその声と絵に違和感を感じてしまってなかなか物語に入り込んでいけないということだ。どの映画がとは言わないけれど、まあ観ている人ならわかるだろう。そして、不思議なのはその違和感がどこかで消え失せて、そのキャラクターの絵と声が一致するようになるということだ。

この作品でも、庵野秀明の声は棒読みというか平板というか、いかにも演技じみているようで気になった。しかし、物語が進むに連れ、その平板な話し方というのが二郎のキャラクターと一致してきて自然に思えてくる。

最初から絵と声がピタリとくればそれはそれでわかりやすく、物語に入りやすくていいのだろうけれど、物語で描かれる人物が魅力的に映るかどうかの要素の一つとして「深み」というものもある。「二郎はなぜこのような話し方をするのか」と観客に考えさせることで宮崎駿はこのキャラクターに一種の深みを与えているのではないだろうか。

その深みというものは複雑さとも言いかえられるかもしれない。二郎は飛行機という夢にまっすぐに向かっていく人物で常に冷静なわけだが、「優しさ」も非常に強く持つ人物でもある。そんな二郎だから、自分が作った飛行機が戦争に使われるということには複雑な気持ちを持ったはずだ。しかしこの作品では次郎がそのことについて自分の想いや考えを表に出すシーンは無い。しかし、複雑な思いでいるのだろうということはわかるのだ。それはもちろん時代背景を思えば想像できることだけど、それ以上に彼の行動と話し方のギャップ、その間隙=行間から読み取れることなのだと思う。

この映画で宮崎駿は明確に戦争に反対したりというメッセージは発さなかったけれど、それが様々な悲劇を生むことを描くことで見るものに考えさせようとしたのだとは思う。

声の話をしたので、もうひとつ、今度は絵の話をしたい。この映画で目についたのは、遠景の「雑さ」だった。画面の手前の人物やものは今までどおり丹念に描かれているのだけれど、遠くにあるものや小さいものはあえて雑に描かれているような気がしたのだ。例えば、高いところから見下ろした時の人物がひどい場合には点5つくらいで描かれていたように思う。

これまでの宮崎作品がどうだったか思い出せないのだけれど、今回この特徴が目についたのは、今のCG全盛時代には、細部まで緻密に描くことでアニメであっても実写のようなリアリティを実現することが可能になってきているということがあるのではないかと思う。CGで処理すれば細密な描写が(処理は重くなるだろうけど)いくらでも可能で、どこまで細かくするのかは作り手の判断次第となる。手書きの時代にはもちろんそんなことは不可能だった。

かと言って宮崎が手書きの時代を懐かしんであえてこういう表現を選んだわけではないと私は思う。むしろ、細密な表現が出てきたけれども、必ずしもそれが映画の「面白さ」につながっているとは限らないということが理由なのではないかと思う。

遠景が雑なことに加えて思ったのは、背景がすごく平面的に描かれているということだ。大部分は遠近法にそって描かれているんだけれど、時々ほんとうに平板な背景が表れる。それを見て思い出したのは「浮世絵」だ。あるいは日本画の伝統か。遠近法の観点から言うとすごく平面的なんだけれど、別の表現の仕方で対象物との距離を表現している浮世絵を思い出したのだ。

宮崎駿が浮世絵を意識しているかどうかは知らないけれど、時代が先へ先へと走っていく中で、温故知新で新しい表現を生み出していくというのは、宮崎駿らしくていいと私は思った。

これが長編としては最後の作品ということだけれど、まあそれでよかったのかもしれない。戦争というテーマも、物語も、映像も、宮崎らしさがとても良く表れていて表現したいことは表現しきったのではないかと感じられた。

もちろん作りたいという気持ちと体力が十分になったならまた長編を作ってほしいとは思うけれど、これまで本当にたくさんの名作を作って来てくれたのだから、本人がやりたいと思うことを好きなだけやって欲しいという気持ちだ。

DATA
2013年,日本,126分
監督: 宮崎駿
原作: 宮崎駿
脚本: 宮崎駿
撮影: 奥井敦
音楽: 久石譲
出演: 庵野秀明、志田未来、瀧本美織、竹下景子、西島秀俊、西村雅彦、風間杜夫

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