風立ちぬ

宮崎アニメで気になるのは、プロではない声優が主人公になると、どうにもその声と絵に違和感を感じてしまってなかなか物語に入り込んでいけないということだ。どの映画がとは言わないけれど、まあ観ている人ならわかるだろう。そして、不思議なのはその違和感がどこかで消え失せて、そのキャラクターの絵と声が一致するようになるということだ。

この作品でも、庵野秀明の声は棒読みというか平板というか、いかにも演技じみているようで気になった。しかし、物語が進むに連れ、その平板な話し方というのが二郎のキャラクターと一致してきて自然に思えてくる。

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カーズ2

 人気レーサーのライトニング・マックィーンがラジエーター・スプリングスに帰ってきて、親友のおんぼろレッカー車メーターは大喜び。しかし、テレビで挑戦状をたたきつけられ今度はワールドグランプリに参加することに。日本で行われる大会にメーターもついていくことが出来る聞き、大喜びするのだが…
ディズニー/ピクサーの大ヒットアニメ『カーズ』の続編。相変わらずCGが素晴らしい。

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親指ブレアサム

The Blair Thumb
2001年,アメリカ,30分
監督:トッド・ポーチガル
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 前2作が話題を呼んで、続編が期待されていた「親指」シリーズ、オーデカークが満を持して出したのは、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の親指版。そもそも、いろいろと物議をかもし、ヒットはしたものの揶揄されることも多かった映画なので、パロディするのは楽なはず。
 しかし、オーデカークが作ったのはパロディというよりは、映画をネタにしたコメディ。設定を借りて、ぜんぜん違うオチを用意して笑わせる。それがミソ。

 そもそもの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がどうしようもない映画だったので、それよりもつまらなくなることはないわけですが、オリジナルの処理に困ったのか、中盤と最後のオチは完全にもとネタからは離れたところで狙っている。ネタを明かすことはもちろんできませんが、その2ヶ所はなかなか笑える。そもそも『ブレア・ウィッチ』の大げささはパロディ化しやすい素材なわけで、『ボガス・ウィッチ・プロジェクト』というパロディもありました(未見)。『ブレア・ウィッチ2』(未見)も最初はパロディだといううわさもあったぐらいだし。
 しかし、それはパロディ作家としては作りにくいという点もあり、みんなが予想するネタではない予想外のネタで笑わせなければならない。冒頭の辺りの「手ブレ撮影法」なんかは面白いけれど、予想できるネタで、誰でもやるだろうこと。わたしが一番好きなのは、中オチのネタ(アー、言いたい!)で、多分オーデカークだか、監督だかも気に入っているらしく、映画後のおまけのところでも登場していた。いやいや、あれは不意を突かれたね。
 この映画はもとネタのいらいらする感じをそのまま使っている。そこをパロディ化してテンポよく行くのかと思ったら、もとネタのいやなところを生かしている。これは多分、ネタとのギャップを強調するためだろうけれど、ちょっと本当にイラつくので難しいところ。
 最初の2本と比べると、見慣れてしまったこともあり、爆発的な笑いはなかったけれど、なんだかんだいって新しいのが出たらまた見てしまうのでしょう。すでに2本作られてるらしいし。

親指バットサム

Bat Thumb
2001年,アメリカ,28分
監督:ディヴィド・ボウラ
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 スティーブ・オーデカークが心血を注ぐ「親指」シリーズの第4作。前作から監督業を退き、脚本と出演(声と親指)に専念。とにかくオーデカークの親指好きとパロディ精神から始まったこの企画。いったいいつまで続くのか。
 今回は『バットマン』のパロディで、映画を下敷きにコミックやアニメのテイストを加える。とにかくくだらないのはいつものとおり、お下劣さは他の作品よりちょっと弱め。親指についた顔のCGがだんだん自然になってきているのがなんだかすごい。

 今回の目玉はなんといってもCGの多用。今までの作品より格段にいいCGを使っている。バットサムがビルから飛び降りるシーンにかなりリアルなCGが使われていて、バットサム自体もCGで作られていて、親指で演じているものよりそっちのほうがかっこいいけど、一瞬しか映らない。こんな高度な技術を使えるにもかかわらず、あくまでローテクでやるのがこのシリーズの面白さなので仕方がない。
 意味がわからないが笑えてしまうネタが多く、その中でもブルー・ジェイが何故かバットサムに常にくっつきたがるというのがいい。バットサムの登場シーンでチンピラとわけのわからない会話をしているのもいい。ここの会話は世の中にあふれる犯罪映画をパロディ化することで、それがいかにリアルではないかということを明らかにしている。
 オーデカークがこのシリーズを作り続けるのは、(親指がすきなのと)そのような風刺精神を遺憾なく発揮できるからだろう。人が演じるパロディよりも親指が演じるパロディのほうが当たりが優しくなるので、いろいろと言いたいことが言えるんじゃないでしょうか。とは言っても作るのは多分結構大変で、指にいちいち顔を入れるだけでも大変。衣装とかを作るのも多分大変。でも、顔のNGはなんだかどんどん自然になってきて、見ていて違和感がなくなってしまった。違和感があったほうが面白いんだけど、なれとは恐ろしいものだ…
 最近はCGもののNG週がはやっているのか、このビデオの最後にもおまけ映像としてボツカットやインタビューなんかが入ってました。これもまたパロディー。そういえば、シリーズに必ず登場する一つ目指がエンドクレジットで「as himself」となっていたのがかなりマニア心をくすぐります。

チェブラーシカ

CHEBYPAWKA
1974年,ソ連,64分
監督:ロマン・カチャーノフ
原作:エドワード・ウスペンスキー
音楽:ウラジーミル・シャインスキー

 何故かオレンジの箱の中で眠っていた不思議な生き物、見つけた果物やさんが「チェブラーシカ」(ばったりたおれ屋さん)となづけて、動物園に連れて行くけど受け入れてもらえず、ディスカウントストアの前の電話ボックスに住むことに。でも、ワニのゲーナという友達もできて…
 ロシア人なら誰でも知っている(らしい)ソ連時代のアニメーション、人形をコマ撮りで動かすというとても手間の掛かることをやっているが、とにかくかわいいのでそれでよし。

 えー、物語の内容はもちろんどうでもいいわけですが、2話目のあたりとか社会主義思想を子供たちに広めようというか、子供のうちからそういう価値観を植え付けようというか、そんな意図がなんだか透けて見えてしまうのですが、いまとなっては、歴史の1ページ。
 アニメが振りまく思想性というものは多分子供に大きな影響を与えるので、気にして見なければいけないという気はします。この映画がそのことを教えてくれるというのは確かでしょう。ディズニーもジブリも多かれ少なかれ子供たちの考え方に影響を与えている。そこには意識するものと意識しないものが混在していて、その映画を見ただけではなかなか判断しがたいものもありますが、ディズニーならディズニーの、ジブリならジブリの傾向があることは複数の作品を見ればわかってきます。重要なのは、望ましくないものを見せないことではなくて、いろいろなものを見せること。できればこれみたいなソ連のものとか、何があるかはわかりませんがアラブのものとか、そういったものも見せるほうがいいんだろうなぁという気がします。とはいえ、本当にそうなのかどうかはわかりませんが。少なくとも大人は、そのようにアニメの背後にある思想性というものに意識的でなければいけないと思います。

 が、とりあえずそれさえ意識していれば、あとは楽しめばいいわけで、この映画はまさに癒し系という感じ。安っぽいぬいぐるみ状のチェブラーシカはもちろんですが、出てくる登場人物(生物?)たちがみなかわいいですね。縮尺のあり方とか、そういうのがいいんですかね。チェス板がどう見ても16マスくらいしかなかったり、人より扉のほうが小さかったり、その辺りに味がある。あとは、色使いがなかなか独特でとてもよい。アメリカなんかの70年代のサイケな色使いとはまた違った感じで、今見ると非常にいいのです。
 あとは、ゲーナの歌(多分ロシアの伝統的な歌のアレンジ)もとてもいいですね。アニメとあわせてみているからこそいいのだろうけれど、「サントラないのかな?」と一瞬思ってしまいました。ちょっと『アメリ』に似ているかもしれない。『アメリ』の音楽のヤン・ティルセンはロシアあるいはスラヴ系の人なんだろうか?
 癒されたい人はぜひどうぞ。

モンスターズ・インク

Monsters. Inc.
2001年,アメリカ,92分
監督:ピート・ドクター
脚本:ダン・ガーソン、アンドリュー・スタントン
音楽:ランディ・ニューマン
出演:ジョン・グッドマン、ビリー・クリスタル、メアリー・ギブス、ジェームズ・コバーン、スティーブ・ブシェミ

 子供部屋のクローゼットの扉の向こう側にはモンスターたちの世界がある。モンスター界ではエネルギーとして子供たちの悲鳴が使われるためモンスターズ・インク社ではクローゼットの扉からモンスターを派遣して子供たちの悲鳴を集めている。しかし、モンスターたちは子供に触れられると死んでしまうらしい。そんなある日、会社ナンバー1のモンスターであるサリーはあやまって子供をモンスターシティに引き入れてしまう…
 『トイ・ストーリー』『バグズ・ライフ』と同じくディズニーがピクサーと組んで作ったフルCGアニメーション。従来のCGアニメと比べると毛皮の質感の表現が飛躍的に向上、フワフワ感がとてもいい。

 エンド・ロールに注目しよう。まず、エンドロールのほぼ全編にわたって流れるNGシーン、香港映画やアメリカのB級映画によくあるおまけだが、もちろんアニメにNGがあるわけもなく、わざわざこのために作られた映像であるわけだ。それにはかなりの費用と時間が掛かる。しかし、本編を作った後で、それを作る作業はとても楽しいものだろう、あーでもない、こーでもないといいながら、笑える演出を探す、そんな楽しい作成現場が目に浮かぶようだ。
 さらに、エンドロールの最後のほうに出てくる一文、「No monster was harmed in this motion picture.」という感じの文だったと思うが、これはもちろん普通の(実写)映画で動物虐待をしていないことを断るための一文のパロディだ。こんな人が気付くか気付かないか(そもそもエンドロールを最後まで見る人も少ない)というところまで遊びを加えるその精神に、この映画のすべてが象徴される。
 そう、この映画はすべてが遊び心でできていて、楽しく遊ぶためならどんな努力も惜しまない、そんな映画だ。言い古されて言い方でいえば、子供に夢を与えるために、ということだが、そんな言い古された言い方がぴたりとくるような、ウォルト・ディズニーがアニメを作る始めたころの精神がよみがえってくるようなそんな映画だ。

 まあ、物語などは単純というか、お決まりというか、あれですが、子供というのは単純な物語をくり返し見ることを好むようなので、この映画は子供にも非常によろしいのではないかと思います。
 大人としては、ストーリーがもっと複雑だったらいいのになぁ、とは思うものの、キャラクターのかわいさ(特にブーのしゃべり方や笑い方がなんともいえない)なんかを見て、母性本能だか父性本能だかをくすぐられるもよし、アニメにしてはよくできたアクションシーンを堪能するもよし(わたしはここが一番よかった。ドアのアクションシーンは最高!)、物語のからくりの奥にある現代社会を反映したような不正や巨悪について考えるもよし。単純に癒されるもよしです。
 関係ないですが、この映画に出てくるドアって、どうしても「どこでもドア」を思い出してしまう。『ライオン・キング』の『ジャングル大帝』のパクリ方といい、なんだか納得いかないものがありますね。日本はディズニーにとってかなり大きな市場のはずなのに、こんな商売してていいのかね? というディズニーへの反感も(いくらいい映画であるとはいっても)やはりわきます。

風の谷のナウシカ

1984年,日本,116分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:小松原一男
出演:島本須美、納谷悟朗、永井一郎

 「火の七日間」と呼ばれる文明滅亡のときからから1000年、地球は猛毒の瘴気を放ち、巨大な昆虫が飛び交う「腐海」と呼ばれる森林で覆われていた。海からの風によって腐海の毒から守られている風の谷、平和に暮らすその谷に虫に襲われた軍事国家トルメキアの船が墜落する…
 文明と自然の関係性を問題化しながら、映画としては一人のヒロインをめぐる娯楽作品に仕上げるところがさすが宮崎アニメ。

 今改めてみると、気づくことがいくつかあります。ひとつはこの世界のモデルがコロンブス以前の中南米であるということ。マヤやアステカといった文明をモデルとした神話的な世界でしょう。トルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられます。山際に立つ石造りの建物などもそう。イメージとしてはマチュピチュでしょうかね。
 もうひとつは「顔」です。風の谷の人々は常に顔があり、表情があるのに対して、トルメキアの兵士たちはほんの一部を除いてほとんど顔が見えない。顔を奪われるということは個性を奪われるということであり、人間性を奪われるということだと思います。つまり、トルメキアの人たちの顔を描かないことによって、彼らは非人間的な印象を持つということ。これに対して虫たちには顔がある。トルメキアの兵士たちより、むしろ虫のほうが人間性を持っているとあらかじめ宣言するようなこの構造が宮崎駿の演出のうまさなのかなとも思います。
 あとはキャラクターのデザインの秀逸さでしょうか。特に虫のデザインは本当にすばらしい。もともとSF出身だけにそのあたりは細かいのでしょう。さらに作画監督が「銀河鉄道999」などので知られる小松原一男だというのも大きいかもしれません。
 というところでしょうか。内容に関しては小学校の教科書に載せてもいいようなものなので、特にコメントはいたしません。むしろこの映画を教科書の一部にするべきだと思うくらい。

<日本名画図鑑でのレビュー>

 まず、なぜ『ナウシカ』なのか。『トトロ』や『千尋』ではなく『ナウシカ』なのか、『AKIRA』ではなく『ナウシカ』なのか、である。
 それはこの作品がアニメを“漫画映画”から“アニメーション”に、つまり後に“ジャパニメーション”と呼ばれる新たなメディアへと変化させた記念碑的作品だからである。大人、子供を問わず観客を引き込む物語の面白さとダイナミックな映像というハリウッドにも比肩するスペクタクルの出発点がここにあるからなのだ。宮崎駿という作家の出発点はもちろんこれ以前にあった。しかし、ひとつの映画としてひとつの完成された世界を提供したのはこれが最初だったのである。
だからこの作品は日本の映画史、というよりは世界の映画史に残る名作であるわけだが、そのことをわざわざここで断らなければならないところに若干の歯がゆさはある。

 さて、前口上はそれくらいにして、映画の内容に入るが、この映画は基本的な形としては「人類滅亡後の世界」というSFの基本的な形を踏襲している。しかし、滅亡といい切れないほどの多くの人々が生き残っているし、文明も残っている。しかし、それは滅亡の日=“火の七日間”から千年もの月日が流れたからかもしれない。つまり、滅亡の危機に瀕した人類はいったん原初の生活に戻り、千年かけてこの映画の段階まで取り戻してきたのだというように考えるのが自然なのではないか。
 まあしかし、それはたいした問題ではない。そのような前提はあくまでもひとつの世界観を構築する土台になっているというだけで、そこを突き詰めて行っても特にえられるものはないだろう。
 それでも、この千年というときには意味があるのだと思う。この千年という時の隔たりがあるからこそ新たな神話が生まれ、それが神話化したことについて説得力を持つ。そして神話が説得力を持つからこそ、この物語にも説得力が生まれるのだ。神話の実現、それはつまり神の到来であって、決定的な救済の徴だ。この映画がそのような神話の実現をめぐる物語であるからには、そのようにして神話を産む前提となる歴史を作り上げる必要があったのだ。
 そしてさらにこの映画は、その神話の説得力を高めるために、語られはしなくともより精密な神話を用意しているように思われる。それは、タイトルクレジットのぶぶんで絵巻物のように神話が語られている部分からもわかる。そして、それを見る限りではその神話というのはマヤやアステカといったアメリカ大陸の旧文明をモデルとしているのではないかと思う。それはトルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられるし、山際に立つ石造りの建物なども伝説的な都市国家であるマチュピチュを髣髴とさせる。そのような現実的なモデルを使って精密な神話的世界を作ること、それが実は非常に重要だったのではないかと思う。
 そのような強固な前提が存在しなければ、すべてが空想から成り立っているSFの世界は成立し得ない。そういう意味からいえば、この作品は純粋なSFとしてみても、非常に優れた作品だということになる。

 そして、その神話化はさらに進み、ある意味ではこの物語時代が神話化されているともいえる。この映画は現在から見れば未来を舞台にしたSFであり、映画の時間軸から観ればリアルタイムの物語である(つまり昔話などではない)。にもかかわらず、この映画は全体的に神話くさい。それはおそらく、この物語が神話の構図(つまりは原物語なもの)にピタリとはまるということだろう。
 それが端的に現れるのは、この物語の善悪二分論とそれと矛盾する形でその対立項から逃れる人間の存在である。善悪二分論の部分は非常に明確だ。善の側の極にいるのはナウシカであり、悪の側の極にいるのは巨神兵である。そして風の谷に人々は善であり、トルメキアは悪である。
 そのことは物語を知らなくても、その画面を一瞬見ればわかる。それは、風の谷の人々には全員に顔があるのに対して、トルメキアの人々には顔がない。顔があるのは姫と参謀ともうひとりだけで、その他の兵士たちは常に仮面を下ろしていて顔がないのだ。顔がないということはつまり個人ではなく、したがって人間ではないのだ。ならば彼らはいやおうなく“悪”とみなされざるをえない。
 さらにいうならば、虫には顔がある。つまり虫たちはトルメキアの兵士たちよりも善の側に近い。宮崎駿はこのことをまったく説明せずに、画面だけで感覚的にわからせてしまう。感覚的にわかるということは映画を言葉で理解するということではなく、体のどこかで感じるということにつながるのだ。このあたりが宮崎駿の演出の巧妙さであり、彼の作品がハリウッド映画に比肩するスペクタクルになる得る要因であるのだと思う。

 そしてそれを実現するもとにはキャラクターデザインの秀逸さがあった。宮崎駿や高畑勲はまだ若手と言っていい新進気鋭のクリエーターだったのに対し、作画監督の小松原一男はすでに松本零士作品などで定評を得ている「名前のある」クリエーターだった。当時のアニメファンにしてみれば「コナン」の宮崎と「ハーロック」の小松原、このふたりの組み合わせでどんな世界が描き出されるのか、にわくわくしたことだろう。
 そして、それは見事に結実し、すべてのキャラクターが見事にその世界をきっちりと構成する空間が出来上がった。人も、虫も、乗り物も、そして人々の世界観も、すべてがパズルのピースのようにピタリとはまったのである。
 私がどうしてもこのナウシカを宮崎作品のベスト1に上げる理由はここにある。確かに物語の質などを考えると、いい作品はたくさんあるのだが、小松原一男を失ってしまった宮崎駿はどこかノスタルジーに傾きすぎてしまう傾向があるように思われる。小松原一男はその世界観をSFのほうに、つまり未来のほうに引っ張っていこうとしたが、宮崎駿は過去のほうへと引っ張っていこうとするのだ。
 そのノスタルジーを使うやり方のほうが、今の時流にはあっている(つまりスペクタクルとして観客をひきつけることが出来る)のだとは思うが、それはやさしすぎるというか、わかりやすすぎるというか、単純すぎると思うのだ。過去というすでに整理された時間から現代への教訓を見つけるということは言ってしまえば簡単なことなのだ。歴史を忘却から引き戻すこと、それももちろん大切だが、日本のアニメというものは手塚治虫以来ずっと未来を見つめ続けてきたのではないかと思うのだ。宮崎駿にももう一度、未来に目を向けて欲しいと思う。

 そしてこの映画は、未来に目を向けているがゆえに、そこから現代へと跳ね返ってくる課題も浮き彫りにしている。それは、憎しみの連鎖、あるいは恐怖の連鎖である。いま世界を襲っている未曾有の悲劇の根幹にあるのは恐怖の連鎖/憎しみの連鎖である。恐怖からその恐怖のもとと目される他者を攻撃し、そこに憎しみと恐怖が生まれ、逆向きの攻撃がなされる。その際限ない連鎖が現在の(アメリカからいえば)「アメリカ対テロ」という構図を生み出した。アメリカが恐怖に縁取られた国だということはマイケル・ムーアが盛んに言っているけれど、アメリカに限らず人間は恐怖に弱いのである。
 この映画はそのことを見事に描き出す。恐怖におびえた人々は次々と武器を強力にしてゆき、人間の力の及ばないものまで持ち出してしまう。ナウシカはそれを収める超人的な存在として現れてくるが、そのカリスマの力もどれくらい続くのだろうか…

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

1988年,日本,126分
監督:富野由悠季
脚本:富野由悠季
撮影:古林一太、奥井敦
音楽:三枝成章
出演:古谷徹、池田修一、鈴置洋孝、榊原良子

 かつてジオン公国で軍を率い、その後地球連邦軍に参加したシャア・アズナブル。そのシャアが巨大な隕石を地球にぶつけ、地球に「核の冬」をもたらそうと計画した。ブライト館長のもとアムロらゴンドベル艦隊の面々はシャアの目論見を破ろうと奮戦する。
 ガンダム―Zガンダム―ZZと続いたオリジナルシリーズの一つの締めくくりとなる作品。シャアとアムロというライバルの戦いの最終章。

 やはりガンダムはガンダム。アムロやシャア、ブライト、ミライというおなじみの人たちが出てくるとそれだけで面白い。そして宇宙でのモビルスーツ戦の映像はまさにモビルスーツ系のアニメの原点です。元祖ガンダムからせい昨年としては10年近くのときが流れ、ガンダムのようなアニメが大量に生産された後でもやはりガンダムはガンダム。他のものとは違う何かを感じます。宇宙空間での戦いのスピード感と、にもかかわらずどのモビルスーツを誰が動かしているのかがすぐにわかるような設定。
 しかし、物語としてはネタが尽きてきたという感じでしょうか。シャアとアムロを中心とする展開だとどうしてもオリジナルのガンダムの物語に引きずられ、似たような話になってしまう。だからこの単発の映画でそれを終わらせたのは正解でしょう。シリーズとして繰り返すとどうしてもマンネリになってしまいますからね。
 ガンダムは面白い。結論はそういうことです。果たしてこれが子供の頃ガンダムを見ていなかった人に当てはまるのかどうかはわかりませんが、私にとってはそういうことなのです。

機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙篇

1982年,日本,141分
監督:富野喜幸
脚本:星山博之
音楽:渡辺岳夫、松山祐士
出演:古谷徹、鈴置洋孝、古川登志夫、白石冬美

 激しくなるジオン公国と地球連邦軍の戦い。シャア率いるザンジバルとの戦いを逃れたホワイトベースは中立コロニー・サイド6へ。くしくもザンジバルも同じコロニーに寄港していた。ホワイトベースを迎え撃とうとサイド6を取り囲むジオンの艦隊。
戦争に影響を与え始めた「ニュー・タイプ」。果たして勝つのはジオンか連邦か。 TVシリーズ「機動戦士ガンダム」の映画化第3弾。31話から最後までをダイジェストにする形でシナリオを練り直した作品。

 物語は佳境で、様々な人間関係が渦を巻く。シャアとセイラ、ブライト・ミライ・スレッガー、知らない人には何の事やらわからないかもしれませんが、この当たりの人間ドラマがガンダムの真の面白み。終盤はジオン側でもザビ家を中心とした人間関係の相克を見ることもできます。
 しかし、逆に前半と比べるとモビルスーツやモビルアーマーが次々と登場し(特にジオン)、ここのものに対する魅力が減じてしまうかもしれない。その当たりが少々不満ですが、やはり最後ア・バオア・クーでは感動するしかありません。ああ、やっぱりガンダムっていいわ。
 今回見て思ったのは、「ニュー・タイプ」というのはかなり面白い。単なる突然変異なのかもしれないけれど、必ずしも均一に強さではない。ある意味では強度の違う変異が同時的に起きるという異常事態。ブライトは「そんな都合よく人間変われない」というけれど、そんな無頼とが思いを寄せるミライ・ヤシマも少しニュータイプの気があったりするわけです。ララァとアムロを頂点として様々な段階のニュータイプがいる。うーん、不思議。遺伝学的にどうなのだろう、それは。
 未来史の捉え方なども考えつつ、まだまだ物思いにふけることができる。

メトロポリス

2001年,日本,100分
監督:りんたろう
原作:手塚治虫
脚本:大友克洋
音楽:本多俊之
出演:井元由香、小林桂、富田耕生

 巨大都市メトロポリス、そこではそれを象徴する「ジグラット」の式典が行われていた。メトロポリスを事実上支配するレッド候は国際手配犯である科学者のロートン博士に巨額の資金を払って一体のロボット“ティマ”を作らせていた。その時、そのロートン博士を追って日本から探偵の伴俊作と甥のケンイチがやってきていた。
 手塚治虫の短編を大友克洋が戯曲化し、りんたろうが監督したという豪華な作品。その期待にたがわず豊穣な世界がそこには描かれている。本多俊之の音楽も秀逸。

 やはりアニメはこうじゃなくっちゃ。「アイアン・ジャイアント」もたしかに面白いけれど、あの単純さはやはり子供向けという観を免れない。それに比べてこの映画はすごい。勧善懲悪に表面的には見える(表面的にも見えないかもしれない)その実は非常に哲学的な善と悪の概念が交錯する。果たしてなにを「悪」とみなすのか。それが問題なのである。
 ここに出てくる登場人物たち。ロック、レッド候、アトラス、彼らは異なるものを「悪」と考えていた。その様々な「悪」に対して絶対的な「善」なるものが存在するのか。純粋無垢な存在であるケンイチとティマはその「善」なるものになれるのか?
 解釈的にあらすじを述べるとそういうことだと思います。かなり物語へのひきつけ方もうまく、キャラクターも素晴らしい。特にロボットの描き方はすごく面白い。映像はそれほど「すげえ!」ということはありませんが、やはり完成度は高いと思いました。
 そしてそして、個人的には音楽の使い方がすごくいいと思いました。デキシーランドジャズ風(でいいのかな?)を中心にジャズナンバーをうまく使う。こういう叙事詩的なものを描くとどうしてもクラッシックを使いたくなるものですが、そこをジャズで行ったというところは素晴らしいし、映像と音楽の兼ね合いがまた素晴らしい。ラスト前のあのシーン(ネタばれ防止のためシーンはいえない)にかかる曲(そして曲名もわからない)。何のことやら分かりませんが、そこだけを切り取っても一つの作品となりうるような素晴らしさでした。