家でも、学校でも存在を無視される女子高生の樹里は、実は自殺して霊となって漂う存在で、もう誰からも見えなくなっていた。その樹里が、自殺する前、親友だったミドリと幼なじみの潤也との高校生活を思い出す。そんな彼女には、もうすぐ死にそうな人に取り付く“虫男”の姿が見えた。

樹里は、幸せな高校生活を送っていた。しかし、思春期にありがちなネガティブな思いから自殺してしまう。具体的にその理由を説明することのない樹里だが、死んでしまった今ではそのことを後悔している。

時々、「自分が見えているんじゃないか」と思うことはあっても、本当にそうなのかはわからないし、誰にも触れることはできないし、誰ともしゃべることもできない。自分の死に打ちひしがれる母親の姿を見、自分のように自殺しそうな人を見つけてしまう。

この映画は、そのように死を後悔している樹里の姿を通して、「自殺」の無意味さを唱えているように見える。樹里自身が「成仏できないこと」を自殺に対する罰だと捉え、自殺を罪悪であると捉えているようでもあるからだ。

もちろん、自殺というのは何も解決しないし、何があってもすべきではない。それはいろいろなところで言われているし、いろいろな人が言っている。実際、大人になってみると、思春期の悩みで自殺するほど深刻な悩みなど皆無だと言えるくらいなので、自殺していいことなんて本当に何もないだろうと思う。

さらには、おそらくは「自分を救うため」だった自殺が、周囲の人を苦しめ続けるということを考え合わせると、本当に自殺していいことなんてなにもない。

この作品は、そのことを、樹里が実は「霊」だということをはじめとして、さまざまな小さな驚きを通して描く。この映画の原作は短編のホラー小説だという。映画を見る限り、これらの小さな驚きがぞっとするような恐怖を少し演出していて、まあある種のホラーであると言ってもいいだろう。

自殺については何を書いても陳腐になってしまう印象があり、この映画についても何を書いてもなんだか陳腐になってしまうのだが、この映画自体はそれらの小さな驚きという「ホラー」を散りばめることで陳腐にならないように工夫が凝らされていると言える。

「自殺はダメ」という重要だけれど陳腐なことを、自然と考えさせるように作られていて、教訓めいた話では決して無いのに、どこか感心させられる。この物語がホラーとして作られたということが実はそれに大きく寄与しているのではないかと思う。感動させるようなドラマの視点だとどうしても陳腐さを増してしまうものを「恐怖」という視点から捉え直すことで、異なった側面から描くことができているのだろう。

小中和哉監督はウルトラマンシリーズなどの監督として一部では知られているが、2001年に『くまちゃん』という、宇宙からやってきたしゃべるクマのぬいぐるみが主人公という、どこかで聞いたような映画を撮っている。この映画がかなり独特で、色んな意味で面白かったので、小中監督の名前を聞くと思い出すのだが、残念ながらDVD化はされていない。

この『赤々煉恋』と『くまちゃん』とは全く関係ないのだけれど、この映画で小中監督が気になった人は、万が一見つけたら、(VHSだけど)ぜひ観てみてください。

DATA
2013年,日本,83分
監督: 小中和哉
原作: 朱川湊人
脚本: 小中和哉、山野井彩心
撮影: 藍河兼一音楽: T$UYO$HI
出演: 吉沢亮、吉田羊、土屋太鳳、大杉漣、有森也実、清水富美加、秋本奈緒美

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