2000年,日本,217分
監督:青山真治
脚本:青山真治
撮影:田村正毅
音楽:山田勲生、青山真治
出演:役所広司、宮崎あおい、宮崎将、斎藤洋一郎、光石研
九州で起こったバスジャック事件。6人の乗客と犯人が殺され、運転手の沢井と、中学生と小学生の兄妹だけが生き残った。心にキズを抱えた3人は以前の生活に戻ることができず、沢井は失踪し、兄妹は家に閉じこもるようになってしまった。しかし2年後その沢井が帰ってくる…
現代の日本を代表する作家の1人青山真治が白黒シネスコ3時間半という、非現代的非商業的なフォーマットで撮った挑戦的な作品。これも現代の日本を代表するカメラマンである田村正毅とともに作り上げた映像は研ぎ澄まされており、美しい。
確かに見事な映像。白黒シネスコというのもとても好き。しかし、これが「新しい」映画なのか? という疑問が付き纏う。どの画面を切り取ってもどこかで見たことがあるような気がしてしまう。ヴェンダース、ソクーロフ、アンゲロプロス… 彼らの面影をそこに見てしまうのは私だけだろうか? この映画が70年代に、いや80年代でも作られていたら新しい映画であっただろう。しかし、2000年の今、この映画は果たして「新しい」のか? そんな疑問が生じてしまう。先駆者たちが作り上げた新しい世界観(それはもちろんその先駆者達からヒントを得てのことだが)を組み合わせ、作り出した画面に果たして新しい世界観はあるのか? あえて白黒シネスコというオールドスタイルを取ったこの映画はそれゆえにその古きよき映画を乗り越えていなければならないはずだ。
自らをあえて苦しい立場に置いた作家はその責務を果たすことはできなかった。しかし、巷にあふれる映画と比べるとその完成度は高く、またその挑戦自体にも意味があることだったと思う。だからこの映画は見られる必要がある。そしてそれが見られやすいようにドラマ的なプロット、哲学的なテーマも用意されている。しかしそのどちらも(連続殺人事件の犯人は誰かというドラマとなぜ人を殺してはいけないのかという哲学的テーマのどちらも)それほど完成度は高くない。ドラマは結末が見えてしまうし、哲学的には踏み込みが甘い。だから、ドラマや哲学という入り込みやすい要素によって映画に取り込まれた観客も映画そのものに立ち返らざるを得ない。
誰もがこの映画を見ることによって映画が抱える問題に直面せざるを得ない。映画を愛するものならばこの映画を見なくてはならない。こういう映画を作ってくれる作家が日本にいることはうれしいことだとも思う。
最後に、この映画を語るときどうしても「長い」という問題が出てくる。しかし映画の長さが1時間半あるいは2時間というのは神話でしかなく、実際はどんな長さでもいいはずだ。キェシロフスキーは1時間×10話からなる「デカローグ」をとった。わずか15分の「アンダルシアの犬」はいまだ映画史に残る名作である。だから、そもそもことさらに長さを意識する必要はないはずだ。それでも「長さ」を問題とするならば、この映画が突きつける問題を考えるならば、映画にこれくらいの余裕がなければいけないと言おう。映画からはなれて自分の考えに浸れる時間をこの映画は提供していると思う。
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