2001年,日本,125分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:安藤雅司
出演:柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、菅原文太

 都会から郊外へと引っ越すことになった千尋と両親は来るまで引越し先に向かっていた。その途中で迷い込んだ道の行き止まりにあったトンネルを抜けると、そこには朽ち果てたような建物が並ぶ不思議な空間だった。両親に引っ張られるようにその空間に入り込んだ千尋は日が沈むころ不思議な少年にであった。
 八百万の神々が集う湯屋に迷い込んだ人間の少女を描いたファンタジックな物語。ほのぼのとした中にスリルと謎を織り込んだジブリらしい作品。

 夢のない大人になってしまったのか、それとも夢の世界に浸りきっているのか、こんな夢物語では感動できない自分に気づいてしまう。いわゆる「現実」からいわゆる「夢」の世界へと行き、戻ってくるというだけのお話なら、別に宮崎駿じゃなくたっていいんじゃないかと思う。宮崎駿なんだからもっと現実と夢との乖離を小さくして、この「現実」世界の隣にもこんな「夢」世界が現実に存在していると思い込めるくらいの説得力がほしかったと思う。
 そんなことを考えながら、昔の作品などを思い浮かべてみると、同じような設定なのは「となりのトトロ」くらいのもので、ほかはそもそもからして架空の世界の話だったりする。そして、なるほどトトロもあまり納得がいかなかったなと思い出す。
 さて、ということなので、物語には重きをおかず、細部を考えて見ましょう。 宮崎駿のアニメを見ていつも思うのは、カメラの存在が意識できるということ。もちろんアニメなので、カメラは存在しないのだけれど、あたかもカメラが存在しているかのように画面が構成されている。この映画でも冒頭の一連のシーンではカメラのパン(横に振ること)やトラヴェリング(いわゆる移動撮影)だと錯覚させるような映像が出てくる。その後も人物のフレーム・インやズーム・アップという手法が出てきたりする。このようにしてカメラを意識させることで生まれる効果はおそらくオフ・フレームを意識させるという効果だろう。アニメだからもちろんフレームの外側なんて存在しないのだけれど、カメラの存在を意識すると、自然にその外にもものがあると考えるようになる。だから単純に画面の中だけで作られたアニメーションよりも広がりがあるように感じられるのだと思います。
 これは余談ですが、この映画の中でもっとも宮崎駿らしいと私が思ったのは、千がパイプの上を走るシーン。パイプが外れて落ちそうになるんですが、その落ちそうなパイプの上を走るさまですね。ナウシカでいえば、くずれそうになる橋を渡る戦車。この崩れそうなものの上を急いで走るのを見ると、「あ、はやお」と思います。

 ところで、前に『西鶴一代女』をやったときに、『千と千尋』について触れたのでそれも載せておきます。

 私がこのシーン(田中絹代ふんする遊女お春が金をばら撒く金持ちの男に振り向かないというシーン)でもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。

 ということで、宮崎と溝口は似ているのかと考えてみたのですが、ある種の想像世界を好むという点や女性を主人公にする点は似ている。ただどちらも溝口のほうが宮崎よりも大人向きというか、生々しい感じになる。かといって、宮崎が溝口を子供向けにしたものというわけでもない。
 んんんんんんん、あまり似てない。かな。
 ふたりは興味の方向性が似ているということはあるけれど、作風としてはあまり似ていない。物語に対する考え方がちょっと似ているかもしれないので、それはまた考えることにします。

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