1952年,日本,148分
監督:溝口健二
原作:井原西鶴
脚本:依田義賢
撮影:平野好美
音楽:斎藤一郎
出演:田中絹代、三船敏郎、菅井一郎、宇野重吉、山根寿子、大泉滉、加東大介、沢村貞子

 若作りの化粧をして男の袖を引く50女のお春、遊女仲間と焚き火にあたる。そして、羅漢のひとつに昔の男の面影を見て、数奇な一生を思い出す。もとは裕福な家の出で、御所に上がるほどだったが、身分の違う男と密会しているところを見つかり、洛外追放となってしまったのだった…
 一人の女の数奇な運命を描いた「西鶴一代女」を女性映画の巨匠溝口が見事に映像化。10代から50代まで演じ分ける田中絹代の熱演も見所。三船敏郎や加東大介などの名優が少しずつ登場するところも見もの。

 「西鶴一代女」は「好色一代男」と対照を成すような物語。「好色一代男」は次から次へと女を渡り歩く男の物語、「西鶴一代女」は次々と男を失ってしまう女の物語である。『西鶴一代女』を溝口が監督したのに対して、『好色一代男』(1961)を増村が監督したのはいかにもという感じで面白い。「男」のほうは能動的に次から次へと女を渡り歩いてはいるけれど、それも抗えない運命に翻弄されているという点では「女」と同じなわけで、それを二人の監督がどう描き分けているのかというのに注目するのも面白い。
 この『西鶴一代女』を中心に話しを進めると、さすがに溝口という感じで、映画に落ち着きがある。30年くらいの歳月を追っていくというよりは、一つ一つのエピソードをどっしりと構え、間の経過を描くことはしない。カットが変わったら10年たっているなんてことも多い。したがって、一つ一つのエピソードのなかでは物語りはゆっくりと進む。それを端的にあらわすのは、人物がフレームから出て行ったあとの空舞台を映すカット。この余韻が溝口らしいところといえる。その空舞台は寂しさをわかりやすく表現しているとともに、観客に考える余裕を与えるのだろう。『好色一代男』の場合、その余韻は作られず、とにかくものすごいスピードでエピソードが語られていく。
 さて、この映画で一番好きな部分であり、「男」との対比にもなると私が思うのはお春が遊女となって越後の金持ちを迎えるというシーン、その男が金をばら撒いても振り向かないお春は『好色一代男』の夕霧(若尾文子)とパラレルである。しかし、もちろん視点は「女」がお春の側にあるのに対し、「男」では世之助(市川雷蔵)の側にある。しかも観客はそのお春と世之助の視点に引き込まれるように操作されているから、ほぼ同じエピソードを見ていてもその見え方はかなり違う。溝口の助監督でもあった増村はこの『西鶴一代女』を意識して『好色一代男』を撮っただろうから、このシーンなどはかなり対照性を明確にしようとして作ったのではないだろうか。

 私がこのシーンでもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。
 ということで、宮崎ファンの人は溝口を見て、溝口ファンの人は宮崎を見て、共通点が見つかったら教えてくださいね。

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