A House in Jerusalem
1998年,フランス=イスラエル,89分
監督:アモス・ギタイ
撮影:ヌリット・アヴィヴ
1980年、”Bayit”(『家』)という作品で取材した東エルサレムにある家に再びやってきたギタイはその家とその家があるドルドルヴェドルシェヴ通りに今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。
ドキュメンタリーといいながら、どこか作りものじみた印象がある映画。もちろん「ドキュメンタリーだ」と宣言しているわけではないし、ドキュメンタリーであっても、作り物であってもかまわないのですが…
主役といえるアラブ人の親子。下もとその「家」の所有者で、その父親がギタイの『家』に出ていたというアラブ人親子は英語で話し、カナダ国籍をとったという。彼らはイスラエルのアラブ人で、それは国籍がないということを意味する。彼らはカナダ国籍をとれたことはラッキーだったと語る。そんな父親は病院を経営しているらしい。この父娘の話は見ているものの心にすっと入ってくる。彼らはその土地に愛着を持ち、ユダヤ人を敵視してなどはいない。ともに生きられればいいのにと望みながら、その選択を誤ったアラブ人の過去を非難したりする。
それに対して、ドルドルヴェドルシェヴ通りに住むイスラエル人たちはスイス出身であったり、ベルギー出身であったりする。しかも、彼らはイスラエルを住みよい国だという。しかし、ヘブライ語は話さず、自分自身の言語は捨てない。ギタイがたずねる「ドルドルヴェドルシェヴ通りの意味」についても、人から聞いたあやふやな話をするだけで、明確な答えは提示できない。
発掘作業場が出てくる。そこにはアメリカから来たというユダヤ人の若い女性と、アラブ人の労働者がいる。ユダヤ人の女性はそこで働いているのではなく、祭礼浴をしていた。彼女は「ユダヤ人もアラブ人も土地を奪われた犠牲者だ」というようなことを言う。
このようなことでわたしの心に浮かぶのは、ユダヤ人に対する反発だ。それは多くのユダヤ人が自らの立場に意識的ではなく、あるいは無知であるということだ。自らの加害者性を意識することなく安穏と生きているように見える。そこに憤りを覚えずにはいられない。
イスラエル人であるギタイはここで何を語ろうとしているのか。彼は明確なメッセージを語ろうとはしない。暴力化するイスラエルを危惧する場面はある。おそらく彼はイスラエルが抱える二重性に注目しているのだろう。本来住むべきである家を奪われたアラブ人と現在そこに住んでいるイスラエル人との対比によって、娘が西エルサレムでアラビア語で話すことの怖さによって、エルサレムという都市とイスラエルという国家の二重性を明らかにするのだろう。
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