TOKYO!

 田舎から出てきて東京で友達の家に居候するカップルの苦難を描いたミシェル・ゴンドリー監督の『インテリア・デザイン』、下水道に住む怪人がマンホールから現れ、東京のまちを混乱に陥れるレオス・カラックス監督の『メルド』、10年間引きこもりだった男がピザの配達員の少女の目を見つめてしまったことから起きる事態を描いたポン・ジュノ監督の『シェイキング東京』。
東京が舞台という以外共通点はないが、どの監督も目に見えるそのままの東京を描いてはいない。それぞれにストーリー的な面白さもしっかりある佳作揃い。

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君を想って海をゆく

 フランス北部の街カレーにはイギリスに渡ろうという不法移民が集まっていた。イラクからやってきた17歳のクルド人ビラルもその一人。彼は家族とイギリスに渡った恋人を追って海を渡ろうとするが密航は失敗に終わり、あとはドーバー海峡を泳いで渡るしかないと考えプールに通い始める。そしてプールで妻と離婚調停中のコーチ・シモンと出会う…
『パリ空港の人々』のフィリップ・リオレ監督が移民問題をテーマに描いたヒューマンドラマ。

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獅子座

Le Sugne du Lion
1959年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ニコラ・エイエ
音楽:ルイ・サゲール
出演:ジェス・ハーン、ヴァン・トード、ミシェル・ジラルドン、ステファーヌ・オードラン、マーシャ・メリル、ジャン=リュック・ゴダール

音楽家を名乗って遊び暮らすピエールのもとに大金持ちのおばが死んだという電報が届く。遺産で大金持ちだといきまくピエールはパリ・マッチで記者をするジャン=ピエールをはじめとする友達を呼び、ジャン=ピエールにお金を借りて派手なパーティをする。しばらく後、ピエールは姿を消し、人々はピエールに遺産がはいらなっかったのだとうわさする…

「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集長として理論面でヌーベル・ヴァーグを支えてきたエリック・ロメールが39歳にして始めて撮った長編映画。現在ではヌーベル・ヴァーグを代表する監督のひとりとなっているロメールの見事なデビュー。

何が“ヌーヴェル・バーグ”か? という疑問は常に頭から離れることはないが、この映画が“ヌーベル・ヴァーグ”であることは疑いがない。それはある種の新しさであり、50年代後半にフランスの若い映画監督たちが作り出した共通する独特の「空気」である。緻密に分析すると、編集の仕方とか音の入れ方とかいろいろと分析することはできるのだろうけれど、そういう小難しいことを抜きにしても、“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさというものを経験として蓄積することはできる。この映画はまさにその“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさを全編に感じさせる映画だ。

などといっても、実質的には何も言っていないような気がする。イメージとしてのヌーベル・ヴァーグはこんなものだといっても、何にもならない。だから、これがヌーベル・ヴァーグかどうかはおいておこう。

この映画にもっとも特徴的に思えるのは、パン・フォーカス。パン・フォーカスとは焦点距離を長くして、画面の手前にあるもの遠くにあるものの両方にピントをあわせる撮影方法で、ビデオ時代の今となっては簡単にできる方法だが、フィルムでやる場合、(カメラをやる人はわかると思いますが)絞りを大きく(ゆるく)する必要があるため、大きな光量が必要になる。日本ではパン・フォーカスといえば黒澤明で、それをやるために隣のスタジオからも電源を引っ張ってくるのが日常的な光景だったというくらいのものなわけです。

光量の問題はいいとしても、この作品でもパン・フォーカスが多用される。この映画ではそのパン・フォーカスが画面に冷たい感じを与える。パン・フォーカスをしていながら、画面の奥にあるのがものだけだったりすると画面がさびしい感じがして、そこから冷たさが生まれてくるものと思われる。これが一番発揮されるのはピエールがパリの街をさ迷う長い長いほとんどセリフのないシーン、画面に移るパリの街や人々のすべてにピントが合いながら、それらと交わりあうことのないピエールの姿の孤独さを冷酷なまでに冷静に見つめる視線。その迫力は圧倒的な力を持って迫ってくる。

「絶望」という無限の広がりを持つ言葉を一連の映像として見事に表現したシーン。その言葉には言葉にならないさまざまな感情、怒り、あきらめ、などなどが含まれながら、それは非常に空疎で、やり場がなく、しかし自分には跳ね返ってきたり、などなど。やはり言葉にはならないわけですが、その言葉にならないある種の宇宙をそこに見事に表現したロメールの技量の見事さ。これはなんといってもパン・フォーカスとモンタージュの妙だ。最後にパリの空撮ショットが入れ込まれるのも非常に効果的になっている。

このシーンがものすごくいいシーンだったわけですが、いまのロメールにつながる物を拾うなら、自然さというかアドリブっぽさ、偶然性、というものでしょう。こっちのほうの典型的なシーンは最初のほうのパーティーのシーンで、たしかジャン=フランソワがドアを開けるときに、ドアが一回では開かず、2回か3回がたがたとやる。これが果たして演出なのか偶然なのかはわかりませんが、このアクションひとつでこのシーン、この映画に自然さとリアルさが生まれる。今に至るまでこのような自然さというのがロメールの映画にはあふれている。何気なく見ていると何気なく見過ごしてしまう。だからこそ自然なわけだけれど、そのようなカットやアクションをさりげなくはさんでいく。それこそが“ヌーベル・ヴァーグ”というよくわからない枠組みを越えて、ロメールがロメールらしくあるひとつの要素であると私は思うので、デビュー作のこの作品にもそれが垣間見えたことは非常にうれしいことだったわけです。

小さな兵隊

Le Petit Soldat
1960年,フランス,88分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:モーリス・ルルー
出演:シェル・シュボール、アンナ・カリーナ、アンリ=ジャック・ユエ、ポール・ブーヴェ、ラズロ・サボ

カメラマンのブルーノはアルジェリアの独立を阻止しようとする諜報組織OSAに属し、スイスのジュネーヴにいた。ブルーノは友人にヴェロニカという女の子を紹介され、ブルーノは彼女をモデルにして写真を撮ろうと考える、同じころ、OSAは彼にスイスのジャーナリストであるパリヴォダの暗殺を命ずる。

『勝手にしやがれ』で世界の映画界に衝撃を与えたゴダールの長編第2作。当時フランスが抱えていたアルジェリア問題に真正面から切り込んだ社会派作品だが、展開はスパイサスペンス仕立てで、ゴダールにしてはわかりやすい。ゴダールの恋人だったアンナ・カリーナのデビュー作でもある。

ゴダールはやはりすごい。そしてアンナ・カリーナはやはりかわいい。

『勝手にしやがれ』は確かにすごい。しかし、ゴダールのゴダールとしての始まりはこの映画なのかもしれない。『勝手にしやがれ』はひとつの出来事であり、今となってはある種の記念碑であり、古典であり、ファッションであり、そしてもちろん面白い。しかし、『勝手にしやがれ』のゴダールらしさとはなによりもその新しさにある。ゴダール映画は常に新しい。今見ても新しいが何よりも時代の先を行っているわけ。『勝手にしやがれ』がどう新しかったのかは今となっては実感することはできないし、他にも新しい映画はあったはずだ。それでもゴダールが持ち上げられるのは彼が常に新しいものを作り続けているからだ。私の理解は越えてしまっているものが多いけれど、それでもこれまでのものとは違う何かがそこに表現されていることは感じ取ることができる。それがゴダールなのだろうと私は思う。そのような意味では『勝手にしやがれ』はもっともゴダールらしい作品のひとつであるといえる。

しかし、いまゴダールの作品をまとめてみることができ、それを比較対照することができるようになってみると、ゴダールのスタイルというのは『勝手にしやがれ』よりむしろこの『小さな兵隊』にその素が多く見られる気がする。アンナ・カリーナが出ているというのももちろんだけれど、モノローグの使い方、本や文字の使い方などなどなど。

映画というものを映像に一元的に還元するのではなく音や文字といったさまざまな要素の複層的な構造物として提示する。それがゴダールのスタイルだと私は思っている。映像も単純な劇ではない多量の情報をこめることができる映像にする。それがゴダールなのだと私は感じる。たとえば『中国女』は大量の文字を盛り込んだ映画、ゴダールが特にこだわりを見せるのは「言葉」だ。それもゴダールの特徴である。

この映画はモノローグという形で多量の「言葉」を発していく。そして美女は微笑んでいる、むくれている、そっけなくして見せる。ゴダールを語ると、その言葉が断片的になってしまうのは、ゴダールについて語る言葉もある意味ではゴダールの一部だからだろうか。

ラストシーンの唐突さもなんだかゴダールらしい。見るものに隙を見せないとでも言えばいいのか、「うんうん」といって映画館を出るのではなく「え?」といって映画館を出ざるを得ないように仕向ける。それもまたゴダールなのだと思う。

ただ、この映画には「音」がかけている。ゴダールの映画で非常に効果的に使われる音。効果音やBGMという概念を超越したところで作られ、使われる音、あるいは静寂。『はなればなれに』は音/静寂が非常に印象的な映画だった。その音がこの映画では意識されない。どのような音があったか。印象的だったのはブルーノとヴェロニカがバッハ・モーツアルト・ベートーヴェンについて語るところくらい。

ゴダールは音を獲得し、着実にゴダールになっていく。この次の作品は『女は女である』で、まだそれほどの複雑さはない。この作品にもそれほどの複雑さはない。

トスカ

Tosca
2001年,フランス=ドイツ=イタリア=イギリス,126分
監督:ブノワ・ジャコー
原作:ヴィクトリアン・サルドゥ
脚本:ジョゼッペ・ジャコー、ザルイジ・イリッカ
撮影:ロマン・ウィンディング
音楽:ジャコモ・プッチーニ
出演:アンジェラ・ゲオルギュー、ロベルト・アラーニャ、ルッジェロ・ライモンディ、マウリツィオ・ムラーロ

 プッチーニのオペラ『トスカ』をスクリーン上で演じた作品。舞台を映画化する、あるいはオペラをドラマとして見せるのではなく、映画という舞台装置の中でオペラを表現するという珍しい表現形式をとる。
 1800年のローマ、教会で壁画を描いていたマリオ・カヴァラドッシのところに政治犯として投獄されていた友人のアンジェロッティがやってくる。そこにカヴァラドッシの恋人トスカがやってきてマリオはアンジェロッティを隠した。そしてトスカが去った後アンジェロッティを逃がすが、そこに警視総監のスカルピアがやってきて…

 オペランファンにはたまらないのだろうか? 出ている人たちはオペラ界ではかなり名の売れた人たちらしい。オペラを愛好する人たちは結構いるとは思うけれど、一般的に知られているといえば、三大テノールくらいのもので、なんともマニアックな世界という気がしてしまう。だからこの映画がオペラファンにはたまらないものであっても、私には映画ですらない映画としか思えない。
 オペラとして面白いのかどうかはおいておいて、これが映画になっているのかどうかを考えてみると、オペラをそのまま映画にしたものではなく、映画のためにオペラを作り変えたものなので、多少は映画よりになっているということはいえる。そしてより映画的にするためにドキュメンタリー的要素も取り入れたということになるのだろう。
 しかし、このドキュメンタリー的要素として導入された収録現場の風景が逆にこの映画の映画との隔たりを物語る。映画にはやはり物語が必要であり、オペラ自体には物語がある。しかしこの収録場面には物語がない。これはつまり香港映画なんかでエンドロールに流れるNG集が映画の中に織り込まれてしまったようなもので、とりあえずの間は続くべきである映画空間を切り刻み、映画に擦り寄っただけの単調なオペラの切り売りに出してしまう。オペラによる劇がリアルであるかどうかという問題以前に、この映画は映画的空間を現出させるのに失敗しているといわざるを得ない。

 ミュージカル映画はそれが徹底して映画的空間であるがゆえに、ひとつのジャンルとして成立しえた。そこに違和感を感じる人がいたとしても、それはミュージカルそのものに対する違和感であり、いわゆるリアリズム的な映画との齟齬であり、映画というジャンルの中での差異による違和感である。いくら違和感を感じても、ミュージカル映画が映画的空間から逸脱するとこは(大部分の映画では)ない。
 この映画も収録場面の部分をはずすか、最後にもってくればある種の「オペラ映画」にはなったかもしれない。それはオペラの舞台装置を映画に変えたオペラファンに向けた映画にはなってしまうけれど、それはそれでひとつの映画になったはずだ。
 この映画がこのようにドキュメンタリー的な要素や異なった画面を使うことによって狙ったのは、オペラファン以外の観客に受け入れられようということだろう。しかしオペラファンではない私がこの映画を見る限りでは、「こんな映画を見るよりは生でオペラを見たほうが何十倍も面白いんだろうなぁ」という当たり前な感慨だけだ。

 だから、この映画はオペラファン以外にはまったく受け入れられる余地はないし、そもそも映画ではない。これも見て「オペラ見てみたいなぁ」と思ったらオペラを見に行けばいいし、私にもオペラのよさは多少伝わってきたけれど、やはりこれは映画ではない。

現金に手を出すな

Touchez pas au Grisbi
1954年,フランス=イタリア,96分
監督:ジャック・ベッケル
原作:アルベール・シナモン
脚本:ジャック・ベッケル、モーリス・グリフ、アルベール・シナモン
撮影:ピエール・モンタゼル
音楽:ジャン・ウィエネル
出演:ジャン・ギャバン、ルネ・ダリー、ジャンヌ・モロー、リノ・ヴェンチュラ

 老境に差し掛かったギャングのマックスは空港で奪われた5000万円の金塊の記事を食い入るように見る。友人のリトンと愛人たちとなじみのレストランで食事をし、その愛人たちがステージに立つキャバレーに向かう。そこにはアンジェロという別のギャングが来ており、マックスはアンジェロとリトンの愛人ジョジーが一緒に部屋にいるところに出くわす。そこから物語りは意外な展開に…
 ジャック・ベッケルの傑作サスペンス、単なるギャング映画ではなく、老境に差し掛かったギャングの心を映し出す味わい深い一作。

 表面上は老境に差し掛かったジャン・ギャバン演じるマックスとまだ若いリノ・ヴェンチュラ演じるアンジェロとの抗争を描いたギャングものにありがちな話だが、それはあくまで物語として必要だっただけで、本当に描きたかったのはマックスの心だろう。
 ジャック・ベッケルはフィルム・ノワールに類するハードボイルドな映画を撮っているようでいて、実は非常に精神的な映画を撮っている。それが一番現れているのは、マックスとリトンのふたりが隠れ家で夜を過ごす場面、ふたりのいい年をした男が並んでワインを飲んでラスクを食べ、パジャマに着替えて、歯を磨き、寝る。プロットからするとここはリトンの精神的なゆれとかそういったものを描く場面ということになるのだが、それにしては長い。この場面からわかるのはふたりが年齢を気にしているということだ。明確に「引退」という言葉がセリフに出てくるということもあるし、皺について話したりする。
 また、その翌日には同じ部屋でマックスのモノローグ(というよりは心の声が声として描かれるシーン)がある。このあたりもなんだかくよくよしている感じがして、単純に犯罪映画という感じはしない。初老の男がそろそろ引退しようと考えていて、そのけじめをつけようとするけれど、まだまだ老いちゃいないという気持ちと、それとは裏腹に年齢を感じさせる現実がある。その初老の男がたまたまギャングだったというだけの話なのかもしれない。

 この犯罪映画というよりは老人映画という感じが私には非常に面白かったわけですが、犯罪映画としてももちろん一流品なわけで、一つ一つのシーンの面白さは50年たっても色あせることはない。主に映画の後半の話になるので、少しネタばれ気味になりますが、たとえばマルコが見張りの男が電話をかけに行く隙をついて… のシーン、このリズムがいい。電話を使おうとしてふさがっていたり、「何か起こるのか?」という緊迫感を保ちながらリズムよく展開していく。
 50年という時間は長いようで短いような、さまざまな仕掛けは今では通じなくなっているものもあるが(エレベータが上から透けて見えたり)、いまだに面白く見られるというのはやはりすごい。ジャン・ギャバンもなくなってすでに25年、この映画の時点で50歳、それでもなんだか色気を感じさせる。まだまだ若いジャンヌ・モローもいて、物語に限らず見所盛りだくさんという映画になっていますね。

Les Rivieres Pourpres
2000年,フランス,105分
監督:マチュー・カソヴィッツ
原作:ジャン=クリフトフ・グランジェ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ジャン・レノ、ヴァンサン・カッセル、ナディア・ファレス、ドミニク・サンダ

 フランスの山沿いの村ゲルノンで手を切断され、眼球をくりぬかれ、体中に切り傷をつけられた死体が見つかった。その村はフランス有数の大学を擁し、学長が村長並みの権力を持つ村だったが、殺された男もその大学の職員だった。その捜査にパリからニーマンス警視が派遣される。一方、200キロ離れたザルザックでは子供の墓があらされるという事件がおき、新任の警部補マックスがその捜査に当たっていた。
 複雑に絡み合う殺人事件のなぞを解く二人の刑事をジャン・レノとヴァンサン・カッセルが演じる描いたサスペンスドラマ。原作はフランスでベストセラーとなった小説で、さすがにスリル満点だが、オチがちょっと弱い気もする。

 冒頭の死体を克明に映しながらタイトルクレジットを流すところからして映像にかなりの緊迫感がある。全体的にもブルーのトーン、雪山、雨がちということもあり暗めの画面構成で、いかにもサスペンスという雰囲気が漂う。
 大学というある種の聖域をサスペンスの舞台にしたのもかなりうまく、それも含めて謎解きという点ではおそらく原作の面白さがそのまま映画に反映しているということができるだろう(原作読んでないけど)。結末の部分は原作と同じなのかもしれないけれど、なんだかあっさりしすぎていて、「そうなの?」とちょっと拍子抜けという感じがするのが珠に瑕。最後まで緊迫感を漂わせたまま終われれば、サスペンスの名作になったかもしれないのに。
 映画的には二人の刑事がとてもいい。ジャン・レノはちょっと太めだけれど、そこに貫禄があって、無愛想な役にはぴったり。でもヴァンサン・カッセルのほうがこの映画では味がある。破天荒なようでいながら非常に誠実にことを進める。それでいて三枚目としての役割も負っている。このような役まわりの登場人物がいるところがこの映画のフランス映画らしい(ハリウッド映画とは違う)ところだろうか。
 あとは、恐怖心をあおるような音楽をやたらとつかって、本当に何かがおきるのがどこかわからなくなっている。あまりに何か起こりそうで見え見えというのもどうかと思うけれど、使いすぎるのもどうかなという感じ。観客の緊張感を持続させるという意味ではいいのだけれど、そうして引っ張り続けた緊張感に見合うだけの結末を用意できなかっただけに、少々過剰演出かという気がしてしまう。
 つまり、結局のところこの映画の難点はオチの弱さというところに終始し、映画全編に漂う緊張感が最後まで維持できなかったというところに問題があるということ。それ以外は本当にいい映画でした。

エトワール

Tout pres des Etoiles
2000年,フランス,100分
監督:ニルス・タヴェルニエ
撮影:ニルス・タヴェルニエ、ドミニク=ル・リゴレー
出演:マニュエル・ルグリ、ニコラ・ル・リッシュ、オーレリ・デュポン

 パリ・オペラ座のバレエ団、「エトワール」と呼ばれるソリストたちを頂点にある種の階級が存在し、だれもがエトワールになることを夢見ている。しかし、学校時代から続くそのための競争、エトワールになる以前の「コリフェ」「カドリーユ」としても群舞、それらをこなす生活は厳しい。エトワールになったしても、そこには厳しい自己管理の生活が待っている。それでも彼らはバレエを生きがいとして踊り続ける…
 『田舎の日曜日』などで知られるベルトラン・タヴェルニエの息子ニルス・タヴェルニエがバレエ団に3ヶ月密着し、練習、公演の光景にインタビューを加えて作り上げた初監督ドキュメンタリー作品。

 バレエをする人たちの肉体は本当に美しい。それはワイズマンの『BALLET』のときも思ったことだけれど、その肉体と体の動きの美しさには本当に魅了されてしまう。この映画でもとくに練習風景の体の動きなどを見ると、とてもいい。舞台監督が演技をつけているときの、動きの違いによる見え方の違いなんかも見た目にぱっとわかるくらい違うのがすごい。
 だからといって、その美しさばかりを追っていていいのかどうかというのが映画の難しいところ。ただただ踊るところばかりを見せていては映画にならないので、インタビューなんかを入れる。インタビューを入れることはもちろんいいし、それによって彼らの抱える問題とか、バレエ団がどのようなものであるかとがいうことがわかってくる。しかし、問題なのは、映画にこめるべきメッセージをインタビューに頼りすぎると、映画としての躍動感が失われてしまうということ。バレエダンサーは肉体によって自己を表現するもので、言葉によって表現するものではない。そのことをないがしろにして言葉に頼ってしまうと、バレエの持つ本来の魅力が映画によって減ぜられてしまうことになりはしないだろうか。この映画のインタビューはそれ自体は面白いのだけれど、そういう説明的な面がちょっとある。
 たとえば、練習風景で代役の人たちがそっと練習しているところをフレームの中に捉えているところが結構ある。彼らが代役であることは説明されなくてもわかるのだが、この映画ではそのあと代役を割り当てられた人たちの話が入る。そのインタビューはノートを見せて説明したりして楽しいのだけれど、何かね。ドラマを作り方なのか。最後には代役から出演が決まったダンサーを映すあたりのドラマじみたところがどうもね。
 というところです。この映画でいちばん魅力的なのは「エトワール」になる以前のダンサーたちであって、彼ら、彼女たちのナマの姿さえ伝われば、そこにドラマはいらなかったという気もする。群舞の中の4人が手のつなぎ方を話しているところなんかはそれだけで、そこにいろいろなドラマがこめられていて楽しいのだから。後は、スチールがすごくいい写真でした。映画としてはちょっと卑怯な気もしますが、写真自体はすごくいい写真でなかなか感動的。

ビバ!マリア

Viva Maria!
1965年,フランス,122分
監督:ルイ・マル
脚本:ルイ・マル、ジャン=クロード・カリエール
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ブリジット・バルドー、ジャンヌ・モロー、ジョージ・ハミルトン

 アイルランドのために爆破を繰り返す父親を手伝って育ってきたマリーだったがその父が警察に捕まり、涙ながらに警察もろとも爆破した。そして逃亡中に紛れ込んだ旅芸人の一座で踊り異なる。相棒のマリアとともにストリップまがいの踊りで人気を博したが、「マリアとマリア」という名で講演旅行中にサン・ミゲルで事件に巻き込まれる…
 ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローというフランスの大女優二人が共演、監督はルイ・マルという作品だが、作品のほうはB級テイストにあふれた楽しいもの。BBの魅力全開という感じだが、物語もなかなか痛快で見ごたえがある。

 いろいろと理不尽なところはあるわけですよ。しかし、それはこの映画が基本的にハチャメチャな映画で(そもそもブリジット・バルドーが革命家という設定からして相当無理がある)、監督はそのことをがっちりつかんで、多少の脱線や理不尽は映画が消化してしまうということを理解している。だから、普通に映画を撮るとしたら何とか調整をつけようとすること、たとえばサン・ミゲルの人たちに映画の演説の意味が通じるとか、そういうことを全く放置して、映画をどんどん進めてしまう。これが映画に勢いをつけて、物語を魅力的にする。そのあたりのストーリーテリングの妙というか、映画の組み立て方が絶妙という気がしました。
 しかも、その辺のB級映画とは違って、それぞれのネタがただのバカネタではない。いろいろ元ネタとか含蓄があるような気がする(具体的に何なのかはわかりませんが)。最後のオチも、単純に笑わせようというネタではなく、神父が…(ネタばれ防止)というところに意味があるわけです。20世紀初頭という設定もただブリジット・バルドーにコスチューム・プレイをさせたいという理由だけではなく(もちろん、それも理由の一つではある)、メキシコの革命という時代設定にあわせてあるのです。そのあたりをしっかり考えている感じがとてもよいです。
 というわけで私はとてもいいと思ったわけですが、一般的に言うと、ルイ・マル映画としては主流を外れ、ブリジット・バルドーものとしてもお色気満点というわけではなく(30代に差し掛かっているし)、コメディというわけでもないので、ターゲットとする観客がはっきりしないのがなかなか難しいところなのかもしれません。でも、やはり、なんか、いいですよ。「古い映画はちょっと」とか、「ブリジット・バルドーって動物愛護の人でしょ」とか思っている人も、この映画ならなかなか楽しめるはず。

平原の都市群

Cites de la Plaine
2000年,フランス,110分
監督:ロバート・クレイマー
撮影:リシャール・コパンス
音楽:バール・フィリップス
出演:ベンアメリー・デリュモー、ベルナール・トロレ、ナタリー・サルレス

 盲目の男ベンは少年に導かれて市場を歩き、なじみの人たちと会話を交わす。女性と一緒に医者のところに行き、治療について話をする。場面はいつの間にか同じ名前のベンという男を映し出し、工場で働き、カフェで何か悩んでいる彼の姿を映す。
 全体に暗いトーンで統一されたドキュメンタリーの映像素材とフィクションの映像素材をを幻想的な一編の物語/詩篇に構成する。クレイマーの遺作となったこの作品は非常に難解で、グロテスク、人の心を騒がせる作品になっている。

 はっきり言ってよくわからなかったです。とくに、おそらく盲目のベンの目に映っていると思われる空想の風景、砂漠と母とイグアナと、それらがつむぎだすイメージの意味というか映画全体の中での位置づけが。
 物語自体は一応筋が通っていて、何の解説もなく時系列が交わっていくのもひとつの仕掛けてして面白いし、盲目のベンの心のありようが非常にうまく伝わってくるのがいい。利己中心的で激しい気性のベンが自ら招いてしまった悲劇と、それによる心の変わりよう。本人が演じる(?)盲目のベンがとてもいい。
 最初のほうの仕掛けは、盲目ということを意識させるための黒画面に音声という仕掛け。これは非常にわかりやすく、お手軽な感じがする。しかし、その後もこの映画は音というかノイズを大きくすることで、聴覚に対する鋭敏さをを表現しているようだが、これがなかなか精神をさかなでされるというか、どうも落ち着いて見られない。わたしはどうもノイズに弱いようで、こういう作品はなんだか苦手。
 逆に意味はわからないけれど、静謐で美しい幻想世界のイグアナのほうに心惹かれる。光るうろこ、恐竜のような背中の棘、イグアナはベンなのか、それとも全体がベンでイグアナは彼の心に潜む何者かなのか、立ち去っていったものは誰か、肉の塊は何を意味していたのか、などなど疑問は尽きないのですが、イメージで語られるものはイメージで理解しろ、ということが映画を見る際に
重要なことだと思うので、イメージで考えてみます。
 寂莫、孤独、乾いた感じ、愛の欠如、生命、孤独、恐怖、愛、悲劇、ある種の適応、、、、、
 という感じですかね。
 イメージの言語化。