Near Death
1989年,アメリカ,358分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー
ボストンにあるベス・イズラエル病院。その内科ICUで治療を受ける何人かの病人たちを記録した映画。本当に死に瀕する患者とその死に臨む患者の家族、患者とその家族と話し合いながら治療法を考える医師、看護婦。
ワイズマンはいつものように冷徹な目でそれを見つめるが、そこには生と死というドラマが厳然としてあり、6時間という時間も飽きさせることがない。基本的には4人の患者をそれぞれ独立した物語として描く。
6時間という時間は観客にとってはとにかく考える時間として与えられている。映画が投げかけるものについて考えざるを得ない6時間。それは得がたい時間である。
あまりに長くて最初のほうは忘れてしまいましたが、とにかく最初から最後まで呼吸器や蘇生術という延命治療が問題となる。その背景には脳死が完全に人の死として認められたということがあるだろう。途中で看護婦が行っていたように脳死とは不可逆的な機能停止ではあるけれど、心臓が動き呼吸をしている以上、完全な死のようには見えない。そのような特殊な状況の中でどのような選択ができるのか。この選択の問題は脳死に限らず、回復の見込みのない患者一般に広まる。そこで決断を迫られる患者とその家族。彼らと医者・看護婦との関係。これがこの映画の焦点となっていることは間違いがない。
この映画は川を進むボートの風景ショットから始まり、病院でのエピソードの間に何度も外の景色がインサートされる。最初の区切りはやけに長いが、その終わりには夜の街とそれに続く朝の病院のショットが挟み込まれる。この夜から朝の一連のショットは何度か挟み込まれ、擬似的な一日を作り出す。もちろんその外景ショットで区切られた1エピソードは一日ではなく、順番もそのままではないのだが、その擬似的な一日があまりに長い映画を整理する役目を果たしている。
なぜこんなことを長々と書いたかといえば、この映画が時間を周到に操って作られているからだ。おそらく同時に進行しているであろう3人ないし4人の患者の話をそれぞれ独立した話として順番に語っていく構成。この構成自体がこの映画にとって非常に大きな意味を持ってくるのだが、そのことについてはあとで書くとして、この構成を作り出すために擬似的な時間軸をワイズマンは作り出したわけだ。そのあたりはさすがという感じ。
映画の内容についての感想はといえば、この病院では何度もミーティングが開かれる。それはここの患者の症状について、治療法についてという具体的な話し合いから、倫理観といったような抽象的な問題、井戸端会議のような看護婦の話し合いまで多岐にわたっている。これらの会議や話し合い(それには雑談も含まれる)を会話の意味までわかるようにきっちりと撮るワイズマンの撮り方は見せるというより考えさせようというスタンスだ。他の映画もそうだが、この映画は特に観客の感受性と思考力に訴えかける。ワイズマンの映画は観客自身の思考を抜きにしては完成されえない映画なのだ。
ところで、このような話し合いでたびたび出てくる言葉に「ゴール」というものがある。それは治療・看護の目標の問題だ。医師や看護婦が患者に対して何を成し遂げようとするのか、それを「ゴール」として明確化すること、そのことがこの映画の中では常に重視される。しかし、そのようなゴールを決めなければ医療行為を行うことができないところに、この臨死治療の複雑さ、困難さがある。 さらにこの問題を複雑にしているのが、その「ゴール」を決めるのが患者自身、あるいは患者の家族であるということである。医者は医学的情報を患者や家族に与え、決断を迫る。医者の側としてはひとつの考え(答え)を持って患者や家族との話し合いに臨んでいるけれど、決めるのは患者とその家族であるのだ。しかし、そのような決断を患者自身や家族が本当にできるのか? ワイズマンの突きつけるもっとも大きな疑問のひとつがこれである。自分自身の、あるいは親しいものの死を前にして決定的な決断など本当に可能なのだろうか? 「責任を負う」という医者や看護婦が言う言葉、その言葉がこの決断の意味を表している。医者自身たびたび「自分だったらそんな決断はできない」と言う。それが意味しているのはそのような決断をすることの責任の重さだ。そんな重い責任を誰が負うのか? 看護婦の一人はその責任を負うことこそが仕事だという。
スピラーザ氏のエピソードにファクター夫人の夫の姿が何度もインサートされる。医者である彼でも妻の死を前にして、ただ窓辺でまどろむしかない。力になることはおろか、選択することすらできない。
どう考えをめぐらせても答えにたどり着くことはできない。だからこそワイズマンも6時間もの長きに渡って根本的には同じであるいくつものケースを繰り返し見せることにしたのだろう。この繰り返しという構造にこの映画のポイントがある。それぞれのケースで問題が起こるたびに、観客は問題に立ち返る。それによって導かれる思考の道筋。その思考の繰り返しこそがワイズマンが観客に求めるものだ。
ワイズマンは作りながら繰り返し考え、われわれじゃそれを見ながら繰り返し考える。私はこれを書きながらさらにまた考える。皆さんはこれを読みながらまた考える。あるいはこれを読んで考え、映画を見に行って再び考える。そのように個人が考えることによってしかこの問題の答えへと近づく道はない。答えは決して出ることがなくとも、このような思考の積み重ねが個人が問題にぶつかったときに助けになるかもしれないと思う。
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