Public Housing
1997年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー
シカゴにある公共住宅アイダ・B・ウェルズ・ホームズ、主に低所得者層のマイノリティが住むこの公共住宅には、老朽化などのさまざまな問題がある。住人たちにも、失業、犯罪、麻薬などの問題がある。そんな問題だらけの公共住宅に住む人々にワイズマンは目を向けた。
公共住宅という性質上、役所との交渉がそこには常に存在している。それと同時に、さまざまな話し合いが持たれたり、託児所があったり、バザーが開かれていたり、ひとくくりにはできないさまざまな生活がそこにはある。
これは公共住宅の映画ではない。最初のほうこそ公共住宅の問題点が語られ、害虫駆除などの具体的な問題が提示されるが、それを過ぎると公共住宅というひとつのコミュニティーの話となる。これは『病院』のような施設の性質と密着にかかわる話ではない。ある地域があって、そこは公共住宅で、そこに住む人は貧しかった、という場所設定のドキュメンタリーでしかない。
それがどうということではもちろんない。それはただなんとなく、この映画がワイズマンのほかの映画とはちょっと違うということを示しているに過ぎない。
この映画で一番目を引くのは、昼間からあまりにもたくさんの人が家の近くをぶらぶらしているということだ。これは失業の問題が最も大きく作用しているわけだが、ここにアメリカの抱える根本的な問題がある気がする。もちろん彼らだって働く意思はある。しかし、他方で働かなくても家はあるし、食べていけないこともない。彼らは政府が何とかしてくれると思っている。
わたしは別に努力をしないのがいけないといいたいわけではない。彼らに生活させることができる政府の施策も間違ってはいないだろう。問題なのは彼らの這い上がりたいという欲望の持って行き所がないということだ。住宅管理局のロン・カーターはしきりに「会社を作れ」とけしかけるが、聞く者たちの目は不審気だ。そこには成功するわけないという一種の諦めがあり、閉塞感がある。それは、結局政府は助けてくれないという諦めでもあるが、しかし他方で政府の援助なくしては暮らせないという現実にも直面せざるを得ない。その自分の中での矛盾はただその閉塞感をさらに増すだけだ。
彼らの問題を突き詰めていくと、結局話しは麻薬に行ってしまうのか。この公共住宅には麻薬中毒者と思われる人がたくさんいる。売人などもいるらしい。麻薬が彼らを閉塞感の悪循環に追い込んでいることは確かだ。おそらく警察を含め、周辺に住む人々はアイダ・B・ウェルズを麻薬中毒者の巣窟のように思っているのだろう。じじつ、警官は映画の最初のほうで、公園の同じところに3時間も立っていた女を売人と決め付ける。偏見は新たな悪循環を生む。
それでも映画の終盤に出てくる、治療を受けるためのカウンセリングのシーンは感動的だ。カウンセリングを行う医師の徹底的な我慢強さ。2人の間にはしっかりとコミュニケーションが成立し、きっと彼はちゃんとした治療を受けるだろう。これはこのコミュニティが立ち上がるひとつの方向性を示している。もうひとつその方向性を示しているのは、ボランティアについての話し合いだ。「なんて当たり前のことを言っているんだろう」とは思うが、当たり前のことを当たり前に行って、信頼を勝ち取ってゆくことによって偏見は解消されていくはずだ。しかしワイズマンはこの公共住宅の未来に必ずしも楽観的なわけではない。ほとんどの問題は解決される見込みもないまま放置されている。
先ほども言ったロン・カーターの話をどうだろうか? どうもうまく実現するようには思えない。子供に対する知育はうまくいくだろうか? DV教室でも言われているように、親の姿を見て育つ子供が、この環境の中で健全に生きることにあまり希望は持てない。麻薬の誘惑を断ち切れるような子供は早々にここから出て行ってしまうのでは
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