天井桟敷の人々

Les Enfants du Paradis
1945年,フランス,195分
監督:マルセル・カルネ
脚本:ジャック・プレヴェール
撮影:ロジェ・ユベール、マルク・フォサール
音楽:モーリス・ティリエ、ジョセフ・コズマ
出演:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレス、ピエール・ブラッスール

 19世紀のパリ、犯罪大通りと呼ばれる通りは今日も人で賑わう。その通りにある劇場に役者になりたいといってやってきた男パトリック、その彼が通りで目を止めた美女ガランス、その劇場の看板役者の息子バチスト、女優のナタリー、ガランスの友人で犯罪を繰り返しながらも詩人を自称するラスネールといった人々が繰り広げる壮大なドラマ。
 物語は2幕からなり、1部が犯罪大通り、2部が白い男と題された。プレヴェールの脚本は非の打ち所がなく、カルネの造り方にも隙がない。まさにフランス映画史上指折りの名作。

 3時間以上の映画ほぼ全編にわたって、あきさせることなく見せつづける。それはこの映画のテンポがとても心地いいから。第2部の途中で少しスローダウンしてしまうが、そこでようやくこの映画のスピード感に気づく。長い映画にもかかわらず、一般的なドラマよりもテンポが速い。つまり量的には普通の2時間の映画の3倍くらいの量がある(概念的な量ですが)。それでも辟易せずに、勢いを保ったまま見られるのは、そのプロットの巧妙さ。常に見る側に様々な疑問を浮かべさせたまま次々と物語を展開していく。実に巧妙な脚本と周到な映像化のなせる技。
 劇中劇が非常に面白いというのも素晴らしい。なんとなく映画の劇中劇というと、おざなりで退屈なものが多く、時間も大体短い。しかしこの映画の劇中劇はすごく面白い。映画の中では一部分しか見られないのが残念なくらい面白い。特にバチストの演じる劇は途中で途絶えてしまったときには「終わっちゃうの?」と思ってしまうほど魅力的だった。
 しかし、なんといっても4人4様のガランスへの想い、彼らが抱える想いを描くその繊細さ、そのロマンティシズムはいまだどの映画にも乗り越えられていないのではないかと思う。もちろん中心となるのはバチストとパトリックで、他の2人は障害として作られたようなものだけれど、それでもそこには一種のロマンティシズムがある。4つのロマンティシズムの形が衝突し、それを受け止める女は何を想うのか。
 個人的に少々不満だったのは、第2部途中のスローダウンと、ガランスの配役ですかね。ガランスは魅力的だけれど、絶世の美女というわけではなく(目じりの小皺も目立つし)、ナタリーといい勝負くらいだと思う。好みの問題ですが、そこに映画と一体化するのを邪魔するちょっとした要素がありました。
 そんなことはいってもやはり名作中の名作であることに変わりはなく、何度見てもいいものです。5時間くらいのディレクターズカット版とか、あるわけないけどあったらいいななどと思ってしまいます。淀みなく、美しい。それが永遠に続けばいいのにと思う映画。そんな映画にはなかなか出会えません。

生きるべきか死ぬべきか

To be or Not to be
1942年,アメリカ,99分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:エドウィン・ジャスタス・メイヤー
撮影:ルドルフ・マテ
音楽:ウェルナー・ハイマン
出演:キャロル・ロンハード、ジャック・ベニー、ロバート・スタック、ライオネル・アトウィル

 第二次大戦前夜のワルシャワ、街にヒトラーが現れた。それは実は、ヒトラーとナチスを描いた舞台を上映しようとしていた劇団の俳優だったが、ナチスによってその公演は中止に、そして戦争がはじまる…
 エルンスト・ルビッチが大戦中にナチスをおちょくるような映画を撮った。なんといってもプロットのつなぎ方が素晴らしい。コメディといってしまうのはもったい最高のコメディ映画。

 まず、出来事があって、その謎を解く。ひとつのプロットの進め方としてはオーソドックスなものではあるけれど、それを2つの芝居と戦争というものを巧みに絡めることで非常にスピーディーで展開力のある物語にする。そんな魅力的な前半から後半は一気に先へ先へと物語が突き進む先の見えない物語へと変わる。そのストーリー展開はまさに圧巻。
 そしてこれが大戦中にとられたということに驚く。当時のハリウッドにはそれほどの勢いがあった。ヒトラーが何ぼのもんじゃ!という感じ。しかし、一応コメディという形をとることで、少々表現を和らげたのかもしれない。ストレートに「打倒ヒトラー!」というよりは、やわらかい。しかしその実は逆に辛辣。戦争が終わり、ナチスを批判する映画はたくさん作られ、歯に衣着せぬ言葉が吐き出され、数々の俳優がヒトラーを演じたけれど、この作品とチャップリンの「独裁者」とをみていると、どれもかすんで見えてくる。「シンドラーのリスト」はヒトラーを直接的に描かないで成功したけれども、そこにはどう描こうとも決して越えられない2つの映画が存在していたのではないか?
 そんなことを考えながら、60年前の名作を見ていました。やっぱルビッチってすごいな。ちなみに、主演のキャロル・ロンハードはこの作品が最後の出演となっています。きれいなひとだ…

最後の人

Der Letzte Mann
1924年,ドイツ,72分
監督:F・W・ムルナウ
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、マリー・デルシャフト、マックス・ヒラー

 高級ホテルのドアマンを勤める男。彼はその仕事を誇りにしていた。しかしある日、客の大荷物を持ってぐったりと休んでいるところを支配人に見つかり、トイレのボーイに降格を命じられる。おりしもその日は姪の結婚式、男はドアマンをやめさせられたとは言えず、ドアマンの豪奢な制服に身を包み毎朝出勤するのだが…
 ドイツサイレン時の巨匠ムルナウの代表作のひとつ。この映画はほとんど文による説明を使っていないが、それでも物語は十分に伝わってくる。本当に映像だけですべてを表現した至高のサイレント映画。

 この映画はすごい。サイレントといっても大体の映画はシーンとシーンの間に文章による説明が入ったり、セリフが文字で表現されたりするけれど、この映画で文字による説明があるのは、2箇所だけ。しかも、手紙と新聞記事という形で完全に映画の中のものとして使われるだけ。あとはすべて映像で表現している。
 しかも、俳優の演技、カメラ技術どれをとってもすごい。主人公を演じるエミール・ヤニングスの表情からはその時々の感情がまさに手にとるように伝わってくるし、カメラもフィックスだけでなく移動したりよったり引いたり露出を変えたり、涙で画面を曇らせたり、様々な方法で物語に流れを作り出し、映像の意味を伝えようとする。
 それに、音の表現方法が素晴らしい。最初の場面から、地面ではねる豪雨を描くことでわれわれは豪雨の音を頭の中で作り出すし、勢いよく笛を吹くしぐさで聞こえないはずの笛の音にはっと驚いたりする。
 物語時代の中身もかなり辛辣で、当時の貧富の差の大きさも感じさせるし、人々がいかに富や権威というものに踊らされているかということを風刺するものでもある。
 映像からすべてを読み取ろうとすると、けっこう想像力を掻き立てられ、「えー、最後どうなるのー?」というかなりドキドキした気持ちで見てしまいました。

晩春

1949年,日本,108分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:笠置衆、原節子、月丘夢路、杉村春子、桂木洋子

 北鎌倉に住む、大学教授の父と娘。甲斐甲斐しく父の世話を焼く娘ももう嫁に行かねばならない年頃。しかし娘はそんなそぶりも見せない。そんな娘に叔母が縁談を進め、父にも縁談を持っていくのだが… 結婚をめぐって微妙に変化する父と娘の関係を描いた。
 小津安二郎得意のホームドラマ、笠置衆と原節子というキャストと「東京物語」と並んでこのころの小津の代表的な作品。「東京物語」ほどの完成度はないが、そこに流れる叙情はやはり素晴らしい。

 基本的なスタンスは「東京物語」と同じで、笠置衆はやはり無表情で一本調子。しかし、原節子はかなり表情豊かで、一人体全体で物語を語っているという感がある。そのために、「東京物語」と比べると完成度が低いように見えてしまうのだろうか? 本当は異質なものと捉えればまた違う見方が出来るのだろうけれど、映画のつくりがかなり似通っているのでどうしても、ひとつの視点から比較してしまう。そうすると、「東京物語」のほうがやっぱりすごいということになってしまう。
 しかし、この作品もまた独自なものであると考える努力をしよう。そうするならば、この映画で印象的なのは、人のいない風景のインサートだろう。京都の石庭、嫁に行ってしまったがらんとしたうち、などなど。無表情な人間を取るよりも、完全に無表情な「モノ」を写すこと。そしてその完全に無表情な「モノ」から何かを読み取らせること。それはつまり観客が映画の中の「モノ」に自分の感情を投影させることに他ならない。そのような作業をさせうる映画であること。それが小津の目指したところだったのだろう。
 観客が能動的に映画の中に入っていける映画。それが小津の映画なのかもしれないとこの映画を見て思った。

 ということですが、この「モノ」というのは小津映画の特色であり、小津映画がどこか「変」である最大の要因なんじゃないかと思うわけです。小津映画といえば、「日本!」見たいなイメージ化がされていて、「変」というのと直接的には結びつかないような気がするけれど、よく見ると、あるいは何本も作品を見ていくと、「なんだか変」だということに気づく。もっと細かく分析していけば、その理由のひとつはカットのつながりにあるということもわかってくるのだけれど、もう一つ私が注目したいのは人のいない「モノ」だけのカットの頻出であるように思える。
 映画とは基本的に人物(あるいは擬人化された生き物やモノ)が主人公となって、物語が展開されているわけで、人物以外のものだけが映っている場合には、それは余韻であったり、必要な間として挿入されているものである。しかし、小津の映画では余韻あるいは間というにはあまりに不自然な挿入をされているのである。時には長すぎ、時には妙に短いカットの連続であったりする。
 あるいは、人が映っているのだけれど、物語とはまったく関係なさそうな行動であるようなシーンもある。このあたりはとても「変」で時にはつい笑ってしまったりするのだけれど、それが実は本当の小津映画の面白さであって、いわゆるイメージ化された「日本的なる物」の象徴としての小津なんて、表面的なものでしかないんじゃないかと思えてくる。

第三の男

The Third Man
1949年,イギリス,105分
監督:キャロル・リード
原作:グレアム・グリーン
脚本:グレアム・グリーン
撮影:ロバート・クラスカー
音楽:アントン・カラス 
出演:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワード、バーナード・リー

 第二次大戦直後のウィーンに招かれた一文なしの小説家ホリー・マーチンスは着くなり招待してくれた友人はリー・ライムの死を知らされる。事故死といわれたが納得いかないホリーは現場にいたという第三の男を探しはじめる。
 非常にうまくトリックが隠されたサスペンス。非常に凝った構図が多く見られ、映像へのこだわりが感じられる作品。フレームによって切り取られた、瓦礫に埋もれたウィーンの風景は暗く、重苦しいが、美しさにあふれている。 

 オーソン・ウェルズがこの映画への出演を渋っていたというのはあまりに有名な話ですが、なぜ出たかということについては諸説あります。ひとつは、撮影現場を覗きにいってみたら、意外と気にいったというもの、ちょっと宣伝臭い匂いがしますね。もうひとつは、当時製作中だった映画の資金繰りが悪化し、その資金集めのために出演することにしたというもの。
 まあどちらにしろ、この映画にとって重要なのは、オーソン・ウェルズがでたということ。彼がいるといないとでは大違いですね。初登場のシーンから、きゅっと頭に刻まれる彼の表情、渋い声、眉間の皺、などなど。
 プロットもいいし、映像もいいので、オーソン・ウェルズがいなくても映画として成立はしたと思いますが、やっぱり、いるといないとでは大違い。