機械じかけのピアノのための未完成の戯曲

Neokonchennaya Plya Makhani Cheskogo Pianimo
1976年,ソ連,102分
監督:ニキータ・ミハイルコフ
原作:アントン・P・チェーホフ
脚本:ニキータ・ミハイルコフ、アレクサンドル・アダバシャン
撮影:パーヴェル・レーベシェフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:アントニーナ・シュラーノワ、アレクサンドル・カリャーギン、エレーナ・ソロヴェイ

 ある夏の日、ロシアのとある田舎、とある貴族の未亡人の家に集まる人々。それは未亡人の義理の息子の結婚披露パーティで、知り合いの地主や医者などいろいろな人が集まって様々な騒動を繰り広げる。
 原作はチェーホフの短編で、それを群像劇として映画にした。登場人物が多く人間関係の把握が難しかったりするが、非常な映像へのこだわりが感じられる作品になっている。

 物語としてはよくわからない。おそらく当時ソ連が抱えていた問題(冷戦真っ只中)なども絡みつつ、革命に対する考え方なども孕みつつ、しかし検閲もあるだろうということで何かを口に含みながら言い切らないという感じで物語りは進む。ニコライとソフィアの話がメインであることはわかるし、それはそれとして面白いので、それ以上は追求しません(できません)。
 それよりも、映像的な面がかなり気になる。フレームの奥行きの使い方がとても面白い。最も特徴的なのは建物のロビー(?)で登場人物全員を縦方向に配置して撮るシーンで、これはかなり何度も繰り返し出てきた。それ以外でも、冒頭すぐに、未亡人と男がチェスしているシーンで、手前で違うことをしている人がいたり、どこのシーンかは忘れてしまいましたが、場面の奥で話している手前にフレームの外側から人が入ってきたりかなり意識的に奥行きを使っている。
 映画空間に奥行きがあるということをわれわれは暗黙の了解として理解しているけれど、本当はあくまでも二次元の空間であり、奥行きというのは遠近法を使った錯覚である。アニメなどを見るとそれを意識することはあるが、普通に映画を見ているとそのことは余り意識しない。われわれはそれだけこの錯覚に慣れてしまっているのだが、この映画の極端な奥行きの表現は逆にそのことをわれわれに意識させる。だからどうということもないけれど、「そういえば、そうだったね」と当たり前の事実に気づくという経験がこの映画を見て一番印象的なことでした。