チェブラーシカ

CHEBYPAWKA
1974年,ソ連,64分
監督:ロマン・カチャーノフ
原作:エドワード・ウスペンスキー
音楽:ウラジーミル・シャインスキー

 何故かオレンジの箱の中で眠っていた不思議な生き物、見つけた果物やさんが「チェブラーシカ」(ばったりたおれ屋さん)となづけて、動物園に連れて行くけど受け入れてもらえず、ディスカウントストアの前の電話ボックスに住むことに。でも、ワニのゲーナという友達もできて…
 ロシア人なら誰でも知っている(らしい)ソ連時代のアニメーション、人形をコマ撮りで動かすというとても手間の掛かることをやっているが、とにかくかわいいのでそれでよし。

 えー、物語の内容はもちろんどうでもいいわけですが、2話目のあたりとか社会主義思想を子供たちに広めようというか、子供のうちからそういう価値観を植え付けようというか、そんな意図がなんだか透けて見えてしまうのですが、いまとなっては、歴史の1ページ。
 アニメが振りまく思想性というものは多分子供に大きな影響を与えるので、気にして見なければいけないという気はします。この映画がそのことを教えてくれるというのは確かでしょう。ディズニーもジブリも多かれ少なかれ子供たちの考え方に影響を与えている。そこには意識するものと意識しないものが混在していて、その映画を見ただけではなかなか判断しがたいものもありますが、ディズニーならディズニーの、ジブリならジブリの傾向があることは複数の作品を見ればわかってきます。重要なのは、望ましくないものを見せないことではなくて、いろいろなものを見せること。できればこれみたいなソ連のものとか、何があるかはわかりませんがアラブのものとか、そういったものも見せるほうがいいんだろうなぁという気がします。とはいえ、本当にそうなのかどうかはわかりませんが。少なくとも大人は、そのようにアニメの背後にある思想性というものに意識的でなければいけないと思います。

 が、とりあえずそれさえ意識していれば、あとは楽しめばいいわけで、この映画はまさに癒し系という感じ。安っぽいぬいぐるみ状のチェブラーシカはもちろんですが、出てくる登場人物(生物?)たちがみなかわいいですね。縮尺のあり方とか、そういうのがいいんですかね。チェス板がどう見ても16マスくらいしかなかったり、人より扉のほうが小さかったり、その辺りに味がある。あとは、色使いがなかなか独特でとてもよい。アメリカなんかの70年代のサイケな色使いとはまた違った感じで、今見ると非常にいいのです。
 あとは、ゲーナの歌(多分ロシアの伝統的な歌のアレンジ)もとてもいいですね。アニメとあわせてみているからこそいいのだろうけれど、「サントラないのかな?」と一瞬思ってしまいました。ちょっと『アメリ』に似ているかもしれない。『アメリ』の音楽のヤン・ティルセンはロシアあるいはスラヴ系の人なんだろうか?
 癒されたい人はぜひどうぞ。

アレクサンドル・ネフスキー

Alexander Nevsky
1938年,ソ連,108分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ドミトリー・ワリーシェフ
撮影:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ピトートル・A・パブレンコ
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
出演:ニコライ・チェルカーソフ、ニコライ・オフロプコフ、ドミトリ・オルロフ

 13世紀のロシア、スウェーデン軍を破った武将アレクサンドル・ネフスキー公爵は通りかかったモンゴル軍にも名を知られる名将、漁をして平和な日々を送っていた。しかし、東からゲルマン軍が侵攻してきて、近郊のノヴゴロドに迫っていた。ノブゴロドの武将はゲルマンの大群になすすべなしとして、ネフスキー公に将となり、軍を率いてくれるように依頼する。
 勇猛果敢なロシア人の伝統を振り返り、ゲルマン人に対する抵抗を訴えたプロパガンダ映画。

 ソヴィエトにあって、その革命思想に共鳴し、人々を動員するような映画を撮りながら、それを芸術の域にまで高めていたのは、かたくななまでの映像美、特にモンタージュの秀逸さであった。そんなエイゼンシュテインがナチスの侵攻を前に、ゲルマン人に対する抵抗を人民に訴えるために撮った映画。その映画はプロパガンダ映画に堕してしまった。エイゼンシュテインはトーキーという技術によって「声」を手に入れたことで堕落してしまった。ゲルマンとローマとキリスト教を悪魔的なものとして描き、ロシアを正義として描く。完全に一方的な視点から取られた寓話は映画ではなく、ひとつの広告に過ぎない。映画をプロパガンダに利用しようという姿勢ではソヴィエトもナチスと大差ないものであったようだ。
 ロシア側を描くときにたびたび流れる「歌」、その歌詞は明確で、戦士たちの勇敢さを朗々と歌い上げるものだ。それに対して、最初にゲルマン軍が登場するときのおどろおどろしい音楽、映像の扱いには非常なセンスと気遣いをするエイゼンシュテインがここまでステレオタイプに音楽を使ってしまったのはなぜなのか、そのような疑問が頭を掠める。しかも、ゲルマン側の(おそらく)司祭は悪魔的な容貌で、悪者然としている。そのような勧善懲悪のプロパガンダ映画でしかないこの映画が、さらに救われないのは映像の鈍さである。サイレント時代のエイゼンシュテインの鋭敏さは影を潜め、説明的なカットがつながっている。音に容易にメッセージをこめることが可能になってしまったことによって、映像を研ぎ澄ますことがおろそかになってしまっているのか、その映像のつながりは鈍い。
 それでも、映像にエイゼンシュテインの感性を感じることはできる。戦闘シーン、行軍する大人数の軍隊をものすごいロングで撮ったカット。個人個人が判別できないくらい小さいそのロングショットの構図の美しさは、冒頭の湖の場面と並んでエイゼンシュテインらしさを感じさせる場面だ。しかし、それが美しいからといってこの映画のプロパガンダ性を免罪しはしない。逆に美しいからこそ、プロパガンダとしての効果が高まり、その罪も重くなるのだろう。だとするならば、この映画が映画として精彩を欠いていることは、逆にエイゼンシュテインを免罪することになるのかもしれない。

全線

Staroye i Novoye
1929年,ソ連,84分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
出演:マルファ・ラブキナ、M・イワーニン

 革命前の慣習が残る農村では、土地は相続されるためにどんどん細分化されてゆき、暮らし向きはどんどん苦しくなっていく。そんな貧農の一人マルファは馬を持たず、牛に畑を耕させるがなかなかうまくいかない。中には自分で鋤を引き、畑を耕そうとする農夫もいた。そんな現実に我慢できないマルファはソヴィエトの提案するコルホーズの組織に賛成し、積極的に参加してゆく。
 『戦艦ポチョムキン』で世界的名声をえたエイゼンシュテインの革命賛歌。

 これは一種のプロパガンダ映画で、ソヴィエトがコルホーズによって農民を組織することで、農民たちの暮らしがどれだけ楽になるかを描いたということはわざわざ書くまでもないが、それを誰に向けたのかということは問題となるかもしれない。被写体となっている農民たち自身に向けているのか、それとも革命に参加したような都市の人々に農村の問題を投げかけようとしているのか。映画を見ると、農村の人たちに向けた映画のように見えるが、上映する手段はあったのだろうか? と、考えるとむしろ都市部の人たちに向けた映画であるような気がする。あるいは、ソ連の外の人たちにも向けているかもしれない。すでに国際的な注目を集める監督であったエイゼンシュテインの作品を使って共産主義思想の浸透を図る。別に革命へ導くというまでの意図はないにしても、ソヴィエトというものがどのようなものかを教える。そしてそれが有益なものであると感じさせる。そのような意図が映画全体から見えてくる。
 そんな映画を共産主義体制が崩壊してしまった今見ること。それが意味するのは当時の意図とは異なってくる。むしろその意図を見る。映画がそのような何かを変えようという意図を持って作られるということ。そのことが重要なのかもしれないと思う。映画が産業ではなかったソ連で作られた映画を見ることは、現代にも意味を持つと思う。
 その意味はまた考えることにして、もうちょっと映画に近づいてみていくと、エイゼンシュテインのカッティングはすごい。映画前編で使われるクロース・アップの連続もすごいけれど、最初のほうでのこぎりで木を切るシーンに圧倒される。のこぎりを引くリズムに合わせて大胆に切り返される画面が作る躍動感はすごい。まさに音が聞こえる映像。画面が切り返されるたびに「ギッ」という音が聞こえてくる。ただ、これだけ細かくカットを割っていくと、どうしてもフィクショナルな印象になってしまう観があり、このような映画にはマイナスかもしれない。しかし、現在の視点からはこのエイゼンシュテインの表現はすばらしいものに見える。これだけダイナミックな映像を作り上げられるエイゼンシュテインはやっぱりすごい。

惑星ソラリス

Солярис
1972年,ソ連,165分
監督:アンドレイ・タルコフスキー
原作:スタニスワフ・レム
脚本:フリードリッヒ・ガレンシュテイン、アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ワジーム・ユーソフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:ナタリーヤ・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス、ユーリ・ヤルヴェット

 惑星ソラリスの軌道上を回る宇宙ステーションに向かうクリス。彼の旅立ちに先駆けて、父の友人で以前ソラリスで幻覚を見るという体験をしたもと宇宙飛行士の記録を見せられる。実際にクリスがステーションに行くと、3人の研究員のうちの一人で、クリスの友人であるギバリャンは自殺してしまっていた。
 アメリカの『2001年宇宙の旅』(1968)と常に比較されるソ連のSF映画の金字塔。『2001年』のような技術力はないけれど、その哲学的な内容がSF映画の枠を超えて議論を呼ぶ。

 この映画にとって、外惑星、あるいはSFという要素は舞台要素に過ぎない。完全に哲学として作られた映画、そのような印象だ。人間とは何か、存在とは何か、意識とは何か、他者とは何か。そのような問いを自分に投げ返すものとして存在する自己の意識の鏡像。つまり、果てしないモノローグ、自分との対話、どのように生きるかという姿勢。
 それなのに夢の実体化として現れるハリーの立場が中途半端なのは不思議だ。夢の具現化でありながら、人間として完璧ではない存在。ドアの開け方もわからない存在。なぜ、最初から完璧な夢の実体化として現れないのか、なぜ学習し、成長する存在として描かれねばならないのか、そしてなぜ自意識を持つまでに成長しなくてはならないのか。
 この映画のわからなさはその辺りにある。単純に自己の意識と向き合うのではなく、自己の意識から生まれながら徐々にそこから離れてゆくものと向き合うということ。そのことにどのような哲学的な意味があるのか。そのように考えていくと、この映画は哲学的な思索ではなく、哲学的な問いかけであるような気がしてくる。
 この映画は絶望的過ぎる。この映画が問いかける問いは「失うことこそ人生なのではないだろうか?」ということかもしれない。「存在とは何か」という問いかけにこの映画は「存在とは失われるものだ」とこたえているような気がする。しかし、それはわれわれに用意された答えではなく、そのような絶望的な答えを映画によって表現することで、それ以外の答えがないかと問いかけようという声なのだろう。「ありはしない」とつぶやきながら、「誰か他の答えを知らないか」とすがるように問いかけるその問いかけに、われわれは失われていくものを愛しむという以外の答えを用意することができるのだろうか?

妖婆・死棺桶の呪い

ВИЙ
1967年,ソ連,78分
監督:ゲオルギー・クロパチェフ
原作:ニコライ・ゴーゴリ
脚本:ゲオルギー・クロパチェフ、アレクサンドル・プトゥシコ、コンスタンチン・エルショフ
撮影:フォードル・プロヴォーロフ、ウラジミール・ピシチャリニコフ
音楽:K・ハチャトリアン
出演:レオニード・クラヴレフ、ナタリーヤ・ワルレイ、ニコライ・クトゥーゾフ

 ロシアの新学校の学生3人が学校が休みの期間荒野を旅する。道に迷い、野宿を覚悟した彼らの前に現れた怪しげな農家。そこにいたのは一人の老婆だった。怪しみながらも他に家もなく、そこに泊まることにした彼らだったが、その夜老婆が神学生の一人ホマーに迫ってきた。
 奇想天外なソ連時代の怪奇映画。いわゆるソ連B級SF作品のひとつ。原作はゴーゴリとなっているが、果たしてどれくらい原作に忠実なのか…

 見ている間も、見終わってからも頭にはずっと?が出続ける。果たして何個の?が頭に浮かんだだろうか。ひとつ明らかなのは、この映画は限りなくB級であるということ。冒頭から背景があっさりと書割で、とてもそれをリアルに見せようとしているとは思えない。書割になったり、実景になったりするその変化がさらに書割の安っぽさを強調する。しかも、時間の描き方がかなり適当で、朝なんだか昼なんだか夜なんかよくわからないまま、時間だけはたっているようなのだ。
 そして特撮は駆使されるが、その稚拙さは言うまでもない。おそらく、ハリウッド映画なら1カットに使われるであろう予算くらいで1本の映画を作ってしまったという感じ。しかし、この極彩色の不思議な特撮空間は魅力的でもある。かなりコアなB級映画ファンはこのあたりの作りはたまらないものがあるでしょう。私は生半可なB級映画ファンなので、ちょっとつらかったですね。同じソ連のSF映画といえば『不思議惑星キン・ザ・ザ』を思い出しますが、あの作品ほどの圧倒的なばかばかしさがこの映画には欠けている。そのように思います。マニアックに見ることはできるけれど、普通の見方をする観客を引き込むことはできない。そんな映画だと思います。
 ところで、原作はゴーゴリらしく、原作となっている『ヴィー』は読んだことないんですが、きっとこんな話ではないと思います。この映画でも「ヴィー」と呼ばれる妖怪のようなものが出てくるんですが、それは一瞬。たいした役回りもない。どうなってんの?

メキシコ万歳

Que Viva Mexico !
1979年,ソ連,86分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリ-・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
撮影:エドゥアルド・ティッセ、ニコライ・オロノフスキー
音楽:ユーリー・ヤクシェフ
出演:メキシコの人たち

 映画はアレクサンドロフの解説から始まる。エイゼンシュテインとティッセと3人でメキシコで映画を撮った話。50年間アメリカにフィルムが保管されていた話。そのあと映画が始まり、メキシコの歴史を語る映画であることが明らかにされる。この映画は現在の先住民達の生活を描く前半と、独裁制時代に辛酸をなめた農奴達を描いた後半からなる。
 ロシア革命とメキシコ革命が呼応する形で作られた革命映画は、エイゼンシュテインが一貫して描きつづけるモチーフをここでも示す。メキシコの民衆に向けられたエイゼンシュテインの眼差しがそこにある。

 私の興味をひきつけたのは後半の農奴達を描いたドラマの部分だ。それはラテン・アメリカに共通して存在する抵抗文学の系譜、映画でいえばウカマウが描く革命の物語。最後にアレクサンドロフが言うようにこの映画がその後の革命までも描く構想であったということは、この映画がメキシコ革命を賛美するひとつの賛歌となることを意味する。
 もちろんエイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」から一貫して革命を支持する立場で映画を撮ってきた。だから、同時代にメキシコで起こった革命をも支持することは理解でき、この映画がアメリカでの話がまとまらなかったことを考えれば当然であるとも思える。そして、このフィルムが50年近くアメリカからソ連に渡らなかったことも考え合わせれば、米ソ(と中南米)の50年間の関係を象徴するような映画であるということもできるだろう。
 内容からしてそのような政治的な意図を考えずに見ることはできないのだが、それよりも目に付くのは不自然なまでの様式美だろう。最初の先住民達を描く部分でもピラミッドと人の顔の構成や、静止している人を静止画のように撮るカットなど、普通に考えれば不自然な映像を挿入する。それはもちろん、その画面の美しさの表現が狙いであり、そのように自然さを離れて美しさを作り出そうとすることがエイゼンシュテインの革新性であり、そのような手法はいまだ革新的でありつづけている。
 そのような革新的な美しさを持つ画面と、革命的な精神を伝える物語がいまひとつ溶け合っていないのは、エイゼンシュテイン自身による編集でないせいなのか、それともその違和感もまた狙いなのかはわからないが、様式美にこだわった画面が映画の中で少し浮いてしまっていることは確かだ。それは他とは違う画面が突然挿入されることによって物語が分断されるような感覚。これはあまり気持ちのいいことではない。もちろんその挿入される画面は美しいのだが、もし現在の映画でこのような映画があったら、ことさらに芸術性を強調するスノッブな映画というイメージになってしまったかもしれない。
 今となってはいくら願ってもかなわないことだが、未完成のの部分も含めたエイゼンシュテイン自身による完全版が見てみたかった。映画もまたその歴史の中で取り返しのつかない失敗を繰り返してきたのだということを考えずにいられない。

不思議惑星キン・ザ・ザ

Kin-dza-dza
1983年,ソ連,134分
監督:ゲオルギー・ダネリア
脚本:レヴァス・カブリア、ゼゲオルギー・ダネリア
撮影:ハーヴェル・レーベシェフ
音楽:ギア・カンチュリ
出演:スタニスラフ・リュブシン、エフゲニー・レオーノフ

 いつものように帰宅したウラジミールは妻にマカロニを買ってくるように頼まれ、街へ。街で見知らぬ青年と「宇宙人だといっている」という裸足の男に声をかける。男が「瞬間転移装置」だと主張する小さな機械のボタンを押すと2人は見知らぬ砂漠の真ん中にいた…
 幻のソ連製カルトSF映画。とにかく不思議な設定とわけのわからない展開、そして「クーッ」が頭にこびりつく。一度見たら決して忘れることのできない映画。

 こんな不思議な映画は見たことがない。とにかく発想がユニークすぎてどうしてそんなことになるのかちっともわからない。予想がつく展開もあるけれど、ほとんどの部分はあまりに展開が唐突でわけがわからん。だからといってつまらないのかというと決してそんなことはなく、ちょっと長いせいで疲れはするものの面白すぎて鼻血が出そう(なんのこっちゃ)。まあ、面白いかどうかは人それぞれかとは思いますが、少なくとも一度見たら決して忘れることができないであろうことは確か。とりあえず、わけのわからないユニークなユーモアにあふれたカルトSF映画として一見の価値があるのです。
 このわけのわからなさは、まずは用語の利用法にある。わけのわからない言葉(固有名詞を含む)をいきなり何の説明もなしに登場させることが多い。それから、結局のところみんな何をしているの一向にわからない。まとめてしまえば物事のほとんどについて理由づけがない。あるいは明らかにされない。だから、なんとなく因果律に従って映画を見るのになれている人(普通の人はみんなそう)にはわけのわからないのでした。
 ソ連映画(ペレストロイカ前)ということで、検閲の問題とからめて、資本主義の風刺と見る見方もきっとできると思いますが(ウラジミールは最初に二人組と会ったとき、「資本主義の国だ!」と叫ぶ)、そんなことは必要ないし、きっとどうでもいいことで、ただただ世の中には理解のできないものがあると感心すればいいような鬼がしました。
 ああ、悔しいけど俺のまけ。いつかどこかでゲオルギー・ダネリアさんにあったらすぐに「クーッ」する。

機械じかけのピアノのための未完成の戯曲

Neokonchennaya Plya Makhani Cheskogo Pianimo
1976年,ソ連,102分
監督:ニキータ・ミハイルコフ
原作:アントン・P・チェーホフ
脚本:ニキータ・ミハイルコフ、アレクサンドル・アダバシャン
撮影:パーヴェル・レーベシェフ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ
出演:アントニーナ・シュラーノワ、アレクサンドル・カリャーギン、エレーナ・ソロヴェイ

 ある夏の日、ロシアのとある田舎、とある貴族の未亡人の家に集まる人々。それは未亡人の義理の息子の結婚披露パーティで、知り合いの地主や医者などいろいろな人が集まって様々な騒動を繰り広げる。
 原作はチェーホフの短編で、それを群像劇として映画にした。登場人物が多く人間関係の把握が難しかったりするが、非常な映像へのこだわりが感じられる作品になっている。

 物語としてはよくわからない。おそらく当時ソ連が抱えていた問題(冷戦真っ只中)なども絡みつつ、革命に対する考え方なども孕みつつ、しかし検閲もあるだろうということで何かを口に含みながら言い切らないという感じで物語りは進む。ニコライとソフィアの話がメインであることはわかるし、それはそれとして面白いので、それ以上は追求しません(できません)。
 それよりも、映像的な面がかなり気になる。フレームの奥行きの使い方がとても面白い。最も特徴的なのは建物のロビー(?)で登場人物全員を縦方向に配置して撮るシーンで、これはかなり何度も繰り返し出てきた。それ以外でも、冒頭すぐに、未亡人と男がチェスしているシーンで、手前で違うことをしている人がいたり、どこのシーンかは忘れてしまいましたが、場面の奥で話している手前にフレームの外側から人が入ってきたりかなり意識的に奥行きを使っている。
 映画空間に奥行きがあるということをわれわれは暗黙の了解として理解しているけれど、本当はあくまでも二次元の空間であり、奥行きというのは遠近法を使った錯覚である。アニメなどを見るとそれを意識することはあるが、普通に映画を見ているとそのことは余り意識しない。われわれはそれだけこの錯覚に慣れてしまっているのだが、この映画の極端な奥行きの表現は逆にそのことをわれわれに意識させる。だからどうということもないけれど、「そういえば、そうだったね」と当たり前の事実に気づくという経験がこの映画を見て一番印象的なことでした。

タクシー・ブルース

Taxi Blues
1990年,ソ連=フランス,110分
監督:パーヴェル・ルンギン
脚本:パーヴェル・ルンギン
撮影:デニス・エフスチグニェーエフ
音楽:ウラジミール・チェカシン
出演:ピョートル・マモノフ、ピョートル・ザイチェンコ、ヴラジミール・カシュプル、エレナ・ソフォノヴァ

 タクシー運転手のシュリコフはある夜騒がしい若者の団体を乗せ、最後の一人まで送り届けた。しかし、金を取ってくるといって去った若者は帰ってこなかった。翌日その若者を訪ねて彼が出演しているライブハウスへ。借金のかたに彼のサックスを預かった。
 ソ連映画といっても崩壊寸前のペレストロイカ全盛の時期を舞台にしている。それは価値観の衝突する時期であり、地道に働くタクシー運転手と自由に生きるミュージシャンという二人を中心に据えることでその対照を際立たせた。
 と、図式的に言ってしまうこともできるが、この映画の魅力はそんな思想的な点ではないし、映画自体もそのような政治的な主題を前面に押し出さない。「人間」というものを巧妙に描いた映画。

 非常にハードボイルドな、それでいて人間の内面をえぐるような不思議な映画。ほとんど感情というものが廃され、登場人物たちは感情をあまり表さず、もちろんそれが語られることもない。特にシュリコフは何を考えているのかわからない無表情な人間で、彼が笑うときは常にシニカルな笑いだ。  もちろんリョーシャはそれとは対照的によく笑い、怒るのだけれど、彼の感情は酒の助けを借りたものだ。
 だから二人が互いにどんな感情を持ち合っているのかを我々は知ることはできない。もちろん二人も互いの感情がわからない。二人が互いに影響を与え合っていることは確かなのだけれど、それぞれの内面での話であって、それが相互理解につながるわけではない。
 まあ、それが表に現れないからこそこの映画は面白いのであって、二人の内面の感情の変化が手にとるようにわかってしまったら、それはできそこないのハリウッド映画になってしまう。そこに陥らなかったのがこの映画のよいところ。
 しかし、リョーシャが黒人のサックスプレイヤーとサックスの演奏で意気投合するというところは少々ロマンチストすぎたかな、という感があった。
 しかししかし、この映画は結局収束せず、物語は拡散していくのだけれど(最後に出てくる後日談も映画の延長にはちっともなく、なんだか唐突な感じがする)、それがこの映画の非常に現実的なところ。二人はただすれ違うだけ。あれだけ様々な出来事が起きたのに、結局は街角ですれ違った人と大差はない。そこに程度の差こそあれ、根本的には何も変わらない。
 この文章もかなり拡散していっているけれど、あるひとつの現実の切り口として、あるひとつの人間ドラマとして、歴史的に大きな意味を持つ場所と時期に関するひとつの語りとして、この映画に描かれているものは非常に興味深い。