プルーフ・オブ・ライフ

Proof of Life
2000年,アメリカ,135分
監督:テイラー・ハックフォード
脚本:トニー・ギルロイ
撮影:スワヴォミール・イジャック
音楽:ダニー・エルフマン
出演:メグ・ライアン、ラッセル・クロウ、デヴィッド・モース、パメラ・リード

 南米の国テカラに駐留し、石油会社でダム建設を指揮している技師のピーターは、会社が買収され、ダム建設が棚上げにされそうなことに怒りを覚え、妻とも諍いを起こしてしまう。その翌日、工事現場へと向かう彼は、突然武装した集団に襲われ、トラックで運びされられてしまった。
 そんなピーターの妻アリスの前に現れたのは、ロンドンにある人質事件を専門に扱う会社から派遣されたプロの交渉人テリー。アリスとピーターの姉ジャニスとともに解決に向けて歩き出すのだが…
 メグ・ライアンとラッセル・クロウの共演というのが最大の売り文句。しかし、メインはサスペンス。といっても、いろいろな要素が入っているので、楽しめる一面もあり、中途半端な一面もあるという感じ。

 最近、古典的ハリウッド映画というものを学びまして、それによるとメインのプロット(たとえば社会的な事件)があって、それに加えて必ずサブプロットとしてメロドラマがある。ということだそうです。そして、社会的事件は解決したんだかしないんだかわからないまま、サブプロットのメロドラマがめでたしめでたしとなって映画が終わるというのが古典的ハリウッド映画のパターンだということらしい。いわれてみれば、そんな気がするという程度ですが、ここで言いたいのは、それが「古典的」というくくりをはずしても、多少の変化こそあれ、ハリウッド映画に存在し続けているルールだということです。
 この映画でも、メインは誘拐の話。そしてサブプロットにメロドラマがある。しかし、この映画の場合そのメロドラマというのはメグ・ライアンをはさんで二つある。夫との関係とラッセル・クロウとの関係。古典的ハリウッド映画に照らしてみると、結局のところこの映画の解決はメグ・ライアンと夫とのメロドラマでしかない。確かに、誘拐事件は解決されたけれど、それはあくまでひとつのケースであり、その誘拐事件の前と後で何かが変わったわけではない。だから古典的ハリウッド映画の文法にしっかりと従っているといえるわけです。
 その中でラッセル・クロウがかかわるメロドラマについて考えてみると、これはあくまで主となる夫との関係への味付けに過ぎない。乗り越えるべきひとつの障害であるということ。ラッセル・クロウはこの映画全体を見ている中では主役なんだけれど、物語から見るとあくまでもバイ・プレイヤーでしかないということ。振り返ってみると、デヴィッド・モースはかなり主体的な人間として描かれており、主人公を担うにたるだけのキャラクターでもあるわけです。
 メインのプロットにしても、それほどその展開が重要ではないというのはその解決が結局のところ偶然によっているということ、そして最後の一連の戦闘シーンのスペクタクルを見ればわかってしまう。それはあくまで最後のスペクタクルに向けた助走であり、最終的なこの映画の持って行き所はスペクタクル(ラッセル・クロウの見せ場)と、メロドラマ(メグ・ライアンの見せ場)であったということを明らかにする。
 もちろん、それがわかりやすく、面白ければ文句はないわけで、そのような映画もたくさんあるけれど、この映画はちょっとわかり安すぎたという気がする。

 さて、古典的といえば、もうひとつこの映画で古典的と思ったのは、そのステレオタイプ化。映画にわかりやすさを求める古典的ハリウッド映画はキャラクターのステレオタイプ化を図ります。舞台となるテカラは仮想国家だけれど、そのモデルはニカラグアで、実際にはメキシコの映像を使っている。ここに登場する人たちはいわゆる「メキシコ人」、そこには多様性のかけらもない。
 もっと面白いのは、ラッセル・クロウの息子がラグビーをやっている。それまでは、ラッセル・クロウがどこの人であるかという解説は(多分)なくて、いきなりラグビーをやっている絵を見せることで、イギリス人と納得させる。そのステレオタイプ化はどうなのか。やはりここもわかり安すぎたという気がする。
 現代の素朴な感覚ではわかりやすさとリアルさというのはどうも背反するらしいので、このようにわかりやすい映画はどうもリアルと感じられない。その辺りがこの映画の最大の問題なのだろう。