巨人と玩具
1958年,日本,96分
監督:増村保造
原作:開高健
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、高松英郎、小野道子、伊藤雄之助
ワールド・キャラメルの宣伝部に勤める新入社員の西は課長の合田に誘われて会社の喫茶室でお茶を飲んでいた。そこで見かけた娘に合田課長は目をつけ、会社のマスコットキャラクターにしようと考えた。そのためにその娘・京子の住所を聞き出し、西をその世話役につけた。
スターダムにのし上がるどこにでもいる少女、企業の非人間的な活動、などなどあまりにたくさんの要素が盛り込まれ、それがものすごいスピードで展開されてゆく。モダニスト増村の真骨頂といわれるこの作品は気持ち悪くなるほど、盛りだくさんでめまぐるしい。
すさまじいスピード。阿部和重はこの映画を「日本映画史上最速の映画」と呼んだ。最速かどうかはわからないが、とにかく速い。何が速いって、セリフも速いが、セリフに間がない。動きも速いがシーンからシーンへの展開の飛び方が速い。あれよあれよと言う間に京子はスターになってしまい、あれよあれよと言う間に西はアポロの女と付き合ってしまい、あれよあれよと言う間にみんながみんな人間が変わってしまう。これが本当のジェットコースタームービー。わたしは、なんだか乗り物酔いのように気持ち悪くなってしまいました。うーん、おなかいっ ぱい。
この間3本見たときにはしつこいほど感じられた「狂気」と言うものはそれほど感じられなかったし、「女に振り回される男」という感じもなかった。「狂気」と言うと、誰かがと言うよりは社会全体が「狂気」に陥っていると主張しているようにも思える。最初、カメラのほうに向かってくる人の波で始まり、さいご、カメラから去っていく人の波で終わるということが、後ろを振り返ることのない社会の歪みを象徴しているのかもしれない。主人公の西はその歪みを認識していて、それを拒否しようとするのだけれど、彼がそれを拒否し切れなかったのはかなり意味深い。血を吐きながらも働こうとする合田に代わって夜中に宇宙服を着て町を歩く西は何を拒否し何を受け入れたのか? どうして彼は笑うことができたのか?
この映画は初期の作品なので、増村らしいとされる「なまめかしさ」はない。それは『青空娘』にも共通している特徴だ。そして映画がまじめだ。別に後期(というか中期)の作品が不真面目だというわけではないが、初期の作品はメッセージがストレートだ。この作品は特にそう。社会に対する増村の目というものがかなりしっかりとあらわれていて興味深かった。 これは野添ひとみと若尾文子の差でもあるのかもしれない。初期増村は野添ひとみを好んで使い、特に川口浩との共演が多かった。しかし『最高殊勲夫人』以降は若尾文子を好んで使った。野添ひとみは自由奔放で楽しいイメージ、若尾文子はなまめかしく男を狂わせるイメージだ。個人的には若尾文子のほうが好きですけどね。
なんとも取り留めなくなってしまいましたが、初期の増村映画について少し考えてみました。