1968年,日本,89分
監督:増村保造
原作:寺内大吉
脚本:池田一朗
撮影:喜多崎晃
音楽:山内正
出演:安田道代、緒方拳、小川真由美、滝田裕介
もと天才スプリンターの宮路はホステスのひもになって落ちぶれた生活を送っていたが、選手時代のライバル峰重に電気会社のコーチの仕事を進められる。しかし、その選手たちを見て宮路はそれを断った。しかし、その帰りバスケット部の練習で見かけた南雲ひろ子に宮路は類まれな素質を見る。そしてひろ子のコーチをはじめた宮路だったが、ひろ子はセックスチェックで半陰陽と診断され、女子選手としての資格が否定されてしまった…
相変わらずすさまじいテンポで進む増村映画。さらにこの映画は半陰陽というなかなか難しいテーマを使って混乱は増すばかり。増村作品の中では少し典型から外れるかなという気もしますが、それは時代のスタンダードに近いということではなく、逆にさらにいっそう離れているということ。
かなりすごい。「えー、そうなのー?」という感想がまずわいてくる。そしてやはり人が一人狂ってしまう。果たして、実際擬半陰陽といえるような外性器をもって生まれてくる人はいるだろうし、それを医者が半陰陽と誤診することもあるだろうし、その擬半陰陽の人が初潮が遅いということもあるのだろうという気はするけれど、果たしてそれが毎日セックスすることで早まるのかといわれるとかなり?????という感じ。
増村は映画的にはかなり先へ先へといっているすごい作家だけれど、思想的な面では、時代より少し先をいっているに過ぎないのかもしれないと思った。この映画から出てくるのは結局は男と女の二分法であって、半陰陽である人の生き様ではない。半陰陽であることを嫌がり、結局女になれた(正確には女であることがわかったということだが、その区別はここでは重要ではない。ひろ子の主観としては、「女になれた」ということであるだろうから)人間の物語でしかない。ここでは半陰陽というものが扱われていながら、いわゆるトランスジェンダーやインターセクシュアルということは問題にならず、単純に「男」と「女」の愛の物語に終始してしまっているわけだ。そのあたりが現在のこの時点から見ると甘いというか、その時代の発想にとらわれているのだと言わざるをえない。
まあ、それは仕方のないことなのでしょう。ジェンダーなんて思想が日本にやってきたのはたかだか20年位前。この映画が撮られたのは30年前。それを求めるほうが無理というもの。それよりもこの映画の映画的な美点を誉めるべきでしょう。でも、それは、ほかの増村映画の解説の繰り返しになってしまうのでやめておきます。ただひとつ言いたいのは、安田道代の眼差しがすごいということ。増村映画のヒロインは若尾文子も野添ひとみも原田美枝子もみんな眼差しがすごいのだけれど、この映画の安田道代は本当にすごい。見られた人間を後ずさりさせるような鋭さ。小川真由美も狂ってしまうほどの鋭さ。峰重の奥さんが狂ってしまったのは宮路に振られたことよりも、その事実を突きつけたのがひろ子であったから何じゃないかと思ってしまうくらい、重い眼差しをしていたのが非常に印象的でした。
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