Pulp Fiction
1994年,アメリカ,154分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:アンジェイ・セクラ
出演:ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ユマ・サーマン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、クリストファー・ウォーケン、ブルース・ウィリス、クエンティン・タランティーノ、スティーヴ・ブシェミ

 レストランで強盗の相談をするカップルのエピソードに始まり、次にメインとなる2人組みのマフィアのエピソードが始まる。2人組みのマフィア、ヴィンセントとジュールスはアパートの一室にブツを取り返しに行くが、そのエピソードから、今度は八百長を持ちかけられるボクサーのエピソードへと飛ぶ。複数のエピソードがモザイク状に配せられた物語。確かに物語としても面白いけれど、むしろもっと面白いのは枝葉末節の部分。様々な脇役がいい味を出して、物語を通過していく。そのさまが格別によい。

 こういう風に、複数のエピソードを重ねられてしまうと、プロットの構成に頭を奪われがちだが、この映画の場合、どのエピソードもたいした内容ではない。それぞれのプロットは絡み合っているけれど、決してスリリングなサスペンスや複雑な謎解きがあるわけではない。なんとなく謎を残しながらエピソードの間を滑っていく。そんな感覚。その感覚がタランティーノの革新的なところで、この映画の後しばらく多くの映画が「パルプ・フィクションっぽく」なってしまうくらいのインパクトをもてたところだろう。
 そのすべるような感覚というのは、この映画のほとんどの部分は余剰の部分で、実際はどうでもいいようなことばかりだというところからきていると思う。たとえば、5ドルのシェイクがうまかろうとまずかろうとそんなことはどうでもいい。これをトラボルタとユマ・サーマンの間の心理の機微を映す鏡と解釈してもいいけれど、私はむしろシェイクの方がメインで、それが何かを語っているように思わせるのは単なるモーションだと思う。そんな思わせぶりなシーンばかりを積み重ねながら、何も語らずに物語りは進行していくわけだ。最初マーセルスが後姿(首のバンソウコウ)しか映らないことから、このボスは謎めいた存在なのかと思いきや、中盤であっさり顔が出てしまうのも、なんとなく思わせぶりながら、あっさり裏切ってしまう一つの例である。
 この「思わせぶり」という要素は、オフ画面を多用するという画面の使い方にも現れている。オフ画面というのは、フレームの外のもので作り出す効果のことを言うが、これは単純に隠されているということから「思わせぶり」な効果を生む。画面の外から聞こえる声・音、フレームの外に出て行ってしまう人。それによってシネスコの画面も有効に使うことができたのだろうと思います。特に、それを感じたのは、ユマ・サーマンが家に帰って(オープンリールの)テープにあわせて踊るところ。柱を挟んで右へ左へと移動するところかしら。
 この映画は「クールだ」とか「バイオレンスだ」とか何とか言われることが多いですが、こんなもんクールでもバイオレンスでもなんでもない暇つぶし映画ですら(語尾がおかしい)。映画という2時間の暇な時間をどう埋めるのか、なんとなく面白そうなことを詰め込んでいってあとはうまくつなげればいい。そういうことなんじゃないかしら。

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