フォー・ルームス

Four Rooms
1995年,アメリカ,99分
監督:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
脚本:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
撮影:ロドリゴ・ガルシア、フィル・パーメット、ギレルモ・ナヴァロ、アンジェイ・セクラ
音楽:コンバスティブル・エディソン、エスクィヴェル
出演:ティム・ロス、マドンナ、リリ・テイラー、アントニオ・バンデラス、クエンティン・タランティーノ、ブルース・ウィリス

 ロサンゼルスのホテル・モンシニョール。ある年の大晦日、そこでお客さんの対応をしているのはのベル・ボーイのテッドだけ。そのテッドが呼び出され、騒ぎに巻き込まれる4つの部屋。その4つの部屋の物語を4つの短編にしたオムニバスをインディーズ系の4人の監督が競作した作品。
 最初の2本はなんだかボヤンとしているが、後半2本はなかなかのでき。特に3本目のロバート・ロドリゲスの作品は、一本の映画にしてもいいのかも、と最初に見たときには思っていて、今考えるとそれが『スパイキッズ』になったのかもしれない。

 最初の作品にマドンナが出ています。アーティストとしては、イメージチェンジしたマドンナですが、どうも女優としてはパッとしないようです。しかし、この映画を見る限り、コメディエンヌとしてならやっていけそうな気もする。この1篇はすべてがすごく無意味です。40年前にのろわれた魔女をよみがえらせてどうなるのか。果たしてコメディなのか、コメディとして笑えるのは呪文というか、儀式のときの魔女たちの悩ましげな声と謎の動き。とても真に迫っていなくて、うそっぽいところがいい。じわりじわりとおかしさがわいてくるような作品。
 2本目は本当によくわかりません。気になったところといえば、ティム・ロスが窓から首を出しているところを断面図的に捉えている場面がどう考えても、画面どおりの向きで撮っていないということ。このあたりのリアリティのなさが笑いにつながればいいのだけれど、ここでは今ひとつならなかった。
 3本目はいいですね。この映画を見ていない人はこれだけのためにでも見る価値はあるかもしれません。広角な感じの画面をうまく使っているのもなかなかいい。最近のアクション映画によくある作風という気がしますが、この時代にはかなり新しい感じであったと思います。
 4本目は、まあ、タランティーノさんどうしたの? という感じでしょうか。『レザボア』と『パルプ』でなかなかうまい使われ方をしていたティム・ロスもこの映画では今ひとつ切れがない。タランティーノはコメディコメディ下コメディはあまり向いていないのかもしれない。と思いました。

パルプ・フィクション

Pulp Fiction
1994年,アメリカ,154分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:アンジェイ・セクラ
出演:ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン、ユマ・サーマン、ハーヴェイ・カイテル、ティム・ロス、クリストファー・ウォーケン、ブルース・ウィリス、クエンティン・タランティーノ、スティーヴ・ブシェミ

 レストランで強盗の相談をするカップルのエピソードに始まり、次にメインとなる2人組みのマフィアのエピソードが始まる。2人組みのマフィア、ヴィンセントとジュールスはアパートの一室にブツを取り返しに行くが、そのエピソードから、今度は八百長を持ちかけられるボクサーのエピソードへと飛ぶ。複数のエピソードがモザイク状に配せられた物語。確かに物語としても面白いけれど、むしろもっと面白いのは枝葉末節の部分。様々な脇役がいい味を出して、物語を通過していく。そのさまが格別によい。

 こういう風に、複数のエピソードを重ねられてしまうと、プロットの構成に頭を奪われがちだが、この映画の場合、どのエピソードもたいした内容ではない。それぞれのプロットは絡み合っているけれど、決してスリリングなサスペンスや複雑な謎解きがあるわけではない。なんとなく謎を残しながらエピソードの間を滑っていく。そんな感覚。その感覚がタランティーノの革新的なところで、この映画の後しばらく多くの映画が「パルプ・フィクションっぽく」なってしまうくらいのインパクトをもてたところだろう。
 そのすべるような感覚というのは、この映画のほとんどの部分は余剰の部分で、実際はどうでもいいようなことばかりだというところからきていると思う。たとえば、5ドルのシェイクがうまかろうとまずかろうとそんなことはどうでもいい。これをトラボルタとユマ・サーマンの間の心理の機微を映す鏡と解釈してもいいけれど、私はむしろシェイクの方がメインで、それが何かを語っているように思わせるのは単なるモーションだと思う。そんな思わせぶりなシーンばかりを積み重ねながら、何も語らずに物語りは進行していくわけだ。最初マーセルスが後姿(首のバンソウコウ)しか映らないことから、このボスは謎めいた存在なのかと思いきや、中盤であっさり顔が出てしまうのも、なんとなく思わせぶりながら、あっさり裏切ってしまう一つの例である。
 この「思わせぶり」という要素は、オフ画面を多用するという画面の使い方にも現れている。オフ画面というのは、フレームの外のもので作り出す効果のことを言うが、これは単純に隠されているということから「思わせぶり」な効果を生む。画面の外から聞こえる声・音、フレームの外に出て行ってしまう人。それによってシネスコの画面も有効に使うことができたのだろうと思います。特に、それを感じたのは、ユマ・サーマンが家に帰って(オープンリールの)テープにあわせて踊るところ。柱を挟んで右へ左へと移動するところかしら。
 この映画は「クールだ」とか「バイオレンスだ」とか何とか言われることが多いですが、こんなもんクールでもバイオレンスでもなんでもない暇つぶし映画ですら(語尾がおかしい)。映画という2時間の暇な時間をどう埋めるのか、なんとなく面白そうなことを詰め込んでいってあとはうまくつなげればいい。そういうことなんじゃないかしら。

ジャッキー・ブラウン

Jackie Brown 
1997年,アメリカ,155分
監督:クエンティン・タランティーノ
原作:エルモア・レナード
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ギレルモ・ナヴァロ
音楽:ジョセフ・ジュリアン・ゴンザレス
出演:パム・グリア、サミュエル・L・ジャクソン、ロバート・フォスター、ブリジット・フォンダ、マイケル・キートン、ロバート・デニーロ、クリス・タッカー

 クエンティン・タランティーノの監督としては第4作。銃の密売をするオーデルと、スチュワーデスのジャッキー・ブラウン、保釈屋のマックス、オーディールの仲間ルイスと個性的な登場人物たちが繰り広げる、一風変わったギャング映画。
 サミュエル・L・ジャクソンやロバート・デニーロといった大スターに囲まれながら、一歩も引けを取らない演技を見せているパム・グリアが素晴らしい。タランティーノの監督技術も相変わらず秀逸で、個人的には、「レザボア・ドックス」に次ぐ名作だと思う。舞台は現代(1995年)ながら、全体に漂う70年代っぽい雰囲気も、映画に見事にはまっていて、不思議な味を出していた。

 クエンティン・タランティーノの監督技術で最も優れているのは、時間の操り方であると思う。映画というのはあらゆる芸術の中で時間の行き来が最も簡単なメディアである。それは、すなわちそれだけ、時間の扱い方が難しいということでもある。並行する出来事をどのようにあつかうのか?クライマックスへの持っていき方を操作するにはどの時間を省けばいいのか?そのような問題を考えるのにこの映画は非常にいい例を示してくれる。
 ひとつは、ジャッキーが保釈され、家に帰った場面。スクリーンが二分割され、左側(だったと思う)に車の中のマックスが、右側に家の中のジャッキー(とオーディール)が映し出される。最後に、観衆はジャッキーがマックスの車の中から銃を持ち出していたことがわかるわけだが、これは、まさに同時進行しなくては、面白さが半減してしまう場面だ。そのことは、後の場面(映画のクライマックスになるモールでの現金受け渡しの場面)と比較すると明らかだ。ここでは、同じ時間帯に起こったことをジャッキー、ルイス、マックスとそれぞれの視点から順番に映し出してゆく。そのことによって、現金の行方と人の流れが徐々に明らかになっていくのだ。
 このふたつの手法はともに時間を操ることによって画面に緊張感を持たせることを可能にしている。モールの場面は特にそれがうまくいっている。なんと言っても、ジャッキーがモール内でレイを探し回る手持ちカメラでの長回し、そして画面から伝わってくるルイスのイライラや、マックスのドキドキ、これらの要素が観客を引き込み、どこにからくりが隠されているのかという興味を持続させる。
 タランティーノはストーリーテラーとして抜群の才能をもっていると思う。