1969年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:池田一朗、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:浅丘ルリ子、岡田英次、岸田今日子、梓英子、川津祐介
大学の理事長のところに1人の派手な女が訪れる。その女・浜ミチは理事長の秘書で娘婿の石堂に理事長の息子に強姦されたといい、200万円の金を要求した。理事長と石堂、その妻晶江の間の話し合いで、金で解決することに決まり、石堂がその金を渡しに行くのだが…
増村得意の男を狂わす魔性の女もの。その中でもかなり強烈な一作。浅丘ルリ子はまさにはまり役。
いきなり紺地にオレンジの水玉のワンピースというカットで始まるこの映画は非常に鮮やかな色彩の映画で、色彩という面ではそれほど冒険してこなかった増村にとってひとつの挑戦だっただろう。しかし色彩といっても、この色彩の多彩さはただただ浅丘ルリ子の衣装に収斂する。風景や車はいつもの増村らしい地味なトーンで統一され、その中で浜ミチの纏う洋服だけが鮮やかに映る。
この浜ミチの色彩的な突出は映画における(あるいは社会における)そのキャラクターの突出とリンクしているのかもしれない。周囲の風景に溶け込まない彼女の被服は、社会に溶け込まない彼女の性質を示し、その不整合は苛立ちを生む。全くひとつの画面として溶け合おうとしない強烈に対立しあう図と地の関係は、全く根本的にコミュニケーションが成り立たない浜ミチと周囲との関係に似ている。このディスコミュニケーションが彼女を見ているわれわれのうちに生じる苛立ちの原因だろう。
浜ミチと周囲の人々は話し合っているようで全くコミュニケーションはできていない。それはもちろん浜ミチが聞く耳を持たないからだが、それはそもそも彼女にはコミュニケーションをしようという意思がないからで、コミュニケーションをとろうと思っている周囲の人たちとかみ合うわけはないのだ。
しかし、われわれは会話とはコミュニケーションであり、互いに相手の言うことを聞いていると思いながら映画を見る。したがって浜ミチよりはその周りの人たちのほうに同一化しやすいだろいう。その同一化の中で見つめる浜道は非常にいらだたしく、厄介な存在だ。「魅力的である」という価値観を共有できない限り、全くもってただただいらだたしいだけの存在だ。
しかし、誰に同一化するかは見る人によって、あるいは見るたびに変化するものだから、この映画が端的に「いらだたしい」映画だと断言することはできない。同じ魔性の女もの「でんきくらげ」を見たときは、すっかり渥美マリの側に自分を置いてしまったので苛立ちはむしろ周りの人のほうに感じた。この違いは何なのか? 映画の側の違いなのか、それとも私の中の何かの問題なのか?
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