1961年,日本,98分
監督:増村保造
原作:五味康祐
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:真鍋理一郎
出演:川口浩、仲宗根美樹、江波杏子、岩崎加根子、永井智雄

 大会社の副社長である山村は夜中1人車を走らせていた。するとそこに1人の少女が。乗せてくれと迫る少女に山村は思わず首を縦に振ってしまう。すると暗がりから何人もの若者が現れた。これをきっかけに、その少女達と山村に加え、山村の娘と秘書が絡み合う物語が始まる。
 60年代当時「六本木族」と呼ばれた若者達を描いたスピード感のある作品。都市の若者を描いたという意味で同時代のヌーヴェルバーグと対比されることの多い作品でもある。

 映画は物語ではない。映画は何かをかたるものでは必ずしもない。それはヌーヴェルバーグのメッセージであり、新しい映画が出発する原点となったものだろう。映画を見て「結局何なんだ」と問うてはならない。いや違う。問うのは自由だけれど、答えを作り手に求めてはいけない。解釈は見る側がするべきものであって、あらかじめ答えは用意されていない。
 そんな映画の意味合いがこの映画の観後感(読後感みたいなものね)にはある。「だから何なんだ」と問いたいけれど、問うてはいけないといわれているような感じ。それはこの映画が新しくはあるけれど圧倒的ではないからだろう。ゴダールやトリュフォーの秀作や、増村の「青空娘」や「最高殊勲夫人」を見て、「だから何なんだ」と問おうとは思わない。それはこれらの映画が何かを語ってはいないにもかかわらず、見るものを圧倒する何かがあるからだ。
 それに対してこの映画はなにも語らず、観客を圧倒もしない。なんといっても白黒に限る江波杏子の居ずまいや当時の若者の者の捉え方(とその描き方)は観客を魅了しはするけれど、圧倒しはしない。理解を越えはしない。
 そう思うのは増村に対して高望みをしてしまうからだろう。しかし、この映画にはそんな解釈を促させる何かがあるのかもしれない。それは映画のどの要素も平均的に合格点という感じの映画だからかもしれない。心地よいスピード感、適度に絡み合ったプロット、うまく練られた映像。そのそれぞれを取れば十分に見事な作品なのだけれど、私が増村の映画に求めるひとつの突出した個性がない。それは一人の役者でも、映像でも、音楽でも、演出でも何でもいいのだけれど、何かひとつ目をひきつけて離さないものがあるといい。
 この映画を見ながら、他の小林節雄や他の川口浩と比べてしまう。すると、「卍」や「闇を横切れ」が頭に浮かんでしまう。でも、江波杏子はこれが一番かもしれないと思った。

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