High School
1968年,アメリカ,75分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:リチャード・ライターマン

 今回ワイズマンが入っているのは、ノースイースト高校。白人中産階級向けの典型的な高校のひとつで、かなり優秀な生徒が集まっているようだ。そんな中でも問題を起こす生徒はおり、生活指導の教師が生徒たちに厳しい言葉を投げかける。あるいは父兄が呼ばれ、成績や進路について話し合う。そんなどこの高校でもありうる風景を連ねた作品。
 ワイズマンには珍しく時代性を強調し、映画の始まりも当時のヒット曲をBGMとして使っている。ワイズマンが切り込むのは、生徒よりはむしろ教師と学校という機構の側である。

 なんともいらだたしい学校だ。表面上は性教育が盛んであったり、現代的な教材(たとえば、サイモン&ガーファンクル)を取り入れたりして、進歩的な教育を行っているように見える。しかし、その実は旧態然とした権威主義と差別主義がすべてを支配する学校だ。教師のどの言葉をとっても、そこに権威主義と/か差別主義が透けて見える。
 生活指導を行う教師はあからさまに権威を振りかざす。そこには理屈はない。生徒が何をしゃべろうとその言い分は何一つ聞かず、あらかじめ用意した自分の考えを生徒に押し付けるだけだ。言葉の上では硬軟使い分けるが、結局言おうとすることはひとつで、反抗する生徒には容赦をしない。ここで思うのは教師たち(一部の生徒もそうだが)の「決め付け」の激しさである。すべては自分の先入観をもとに判断される。これで教育などできるはずがない。
 「家」について話す教師は女系家族を尊重するような口ぶりをするが、旧約聖書にはほとんど女性が登場しないなどという話を持ち出して、結局は女性の地位を貶める(生徒は男子学生のみである。この授業にかかわらず、この学校では男女別の授業が数多くあるようだ)。

 この映画は時代性を意識して作られている。最初のシーンで流れる音楽は当時のヒット今日であるし、ベトナム戦争が話題のなるのも一種の時代性だ。生徒たちのファッションや髪型にも頻繁にカメラが向く。ワイズマンの作品は一般的に言って、時代とか場所とかを超越したような作品が多い。それは一種の普遍性である。この映画もそのような普遍性を目指している点では変わりがない。この時代性が意味するのは、教育と時代との密接な関係性だろう。
 その時代性を象徴するトピックのひとつが最後にやってくるベトナムに行った卒業生からの手紙だが、もちろんワイズマンは観客を感動させようとしてこのエピソードを入れたわけではないし、反戦のメッセージでもない。かといって、超然とそのような生徒=兵士を生産する学校という制度に疑問を投げかけているわけでもない。
 ワイズマンの関心は兵士の生産装置として描かれている学校というものがアメリカという大きな機構のひとつの部品でしかないということであるだろう。その意味は、国と学校を含めた生活とが密接にかかわっているということではなく、その逆である。
 一つ一つの現実は一人一人の人間の生活そのものであり、それは真剣に見つめなければならない問題である。ここで現実とは高校のことであり、それは主に生徒にとっての高校という意味だ。しかし、他方で国という大きな機構があり、それはあらゆる現実と関わり、それを制御しようとする。この国と現実との関係性はあまりに薄い。国は現実とは乖離してしまい、何もすることができない。

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