Model
1980年,アメリカ,129分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー
ニューヨークのモデル事務所「ゾリ」、180人ものモデルを抱えるこの事務所とそこに所属するモデルたちの日常を追う。事務所には仕事の依頼の電話がひっきりなしにかかり、モデル志望も男女がたくさん訪れる。ワイズマンが写すのはその全体。そこにニューヨークの日常的な風景を挟み込んで、その対照性を明らかにする。
ワイズマンの作品としてはメッセージ性が薄く、少し変わった雰囲気の作品。撮影をしながら対象について学んでいくと語るワイズマンだが、こんな馴染みのなさそうな題材でもその姿勢を貫いている。
全体を通じて思うのは、モデルの映画であるのに、モデルたちが話す部分が非常に少ないといういうこと。これはこの映画がモデルたち自体ではなくモデルを取り巻くシステムを問題化しているからだろう。それはつまりモデル事務所を経由してモデルたちが結びつく広告のシステムである。結論から言ってしまえば、広告とはつまり消費社会を支える典型的なシステムであり、消費社会を体現する業界であるといえる。その広告を題材とすることによってこの映画は消費社会批判のような形をとる。
ワイズマンが捉えるのは、その広告を支えるモデル事務所の人々である。事務所という施設ではなく、人間を捉えようとするというのはこの映画のよい点だ。メイクアップをするにしても、CMを撮影するにしても、そこで注目するのは人間である。特に多くの時間を割かれるストッキングのCM撮影の一連のシーンで描かれる人々と、出来上がったCMの没人間性の対比はおもしろい。広告(それは主にモノを広告するもの)というものの性質がことばにならない形でうまく表れている気がする。
ここでモデルたちがしゃべらないという話に立ち返ると、ワイズマンはあえて彼らに話させない(明確にしゃべるのはインタビューのシーンだけ)ことによって、彼らのモノ的な側面を表現しようとしたとも捉えられる。広告という巨大メディアの中では、広告しようとする商品も、その素材となるモデルたちも同じモノでしかないという捉え方。そのような捉え方をワイズマンは問題を捉えるためのヒントにしているのではないか。
もちろん、そのモデルたちを捉えたシーンの間に挟まれるニューヨークの街のシーンも注目に値する。そこに移っている人たちの多くは消費社会の末端に位置する人々だ。デモ行進をする黒人たちの姿もある。その対比の仕方はあまりにわかり安すぎるという気もしないでもないが、これがないと単なるモデル業界の内幕ものとなってしまう不安もある。そのあたりは編集こそが創作活動であるとするワイズマンならではの映画作りといえるのだろう。時にはとっつきやすい題材と、わかりやすい構造の映画も必要ということなのだろうか?
ワイズマンを見慣れた目で見ると物足りないと映るかもしれない。でも、それはそれでいいのだとわたしは思う。ワイズマンはあらゆるアメリカを捉え、それをあらゆるアメリカに対して提示する。そのような作家だから、対象も表現の仕方も多岐にわたっているほうがいいのだ。
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