Store
1983年,アメリカ,118分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ダラスにある高級百貨店「ニーマン=マーカス」。クリスマスシーズンのその百貨店で働く人々とそこに訪れる客たち。静かで広々とした店内に、豪華な品物が並ぶ。エスカレーター脇ではカルテットがクリスマスナンバーを演奏し、毛皮売り場では店員が客にクロテンの毛皮を見せている。
 地域にステータスとして君臨する百貨店をワイズマンはどう切り取ったか。従業員たちを中心に、彼らと客との関係を、彼らと商品との関係を淡々と描く。
 『モデル』『セラフィタの日記』という商品の広告をするモデルを描いた作品から商品を販売する『ストア』へ。この当時ワイズマンの目は「消費」に向いて
いた。

「どのような批判精神がそこにこめられているのか」
 いくつかの作品を見るうちに、いつの間にかそのような視点でワイズマンの作品を見るようになっていた。価値判断を保留し、ただものや人を映像に定着させるだけのワイズマンの視線は見るものに問題を投げかける。今回投げかけられる問題とはなんなのか? そのような問いを、いつも黒地に白い文字のタイトルを見ながら思う。
 この映画では序盤に副社長が「百貨店は商品を売るために存在する」と言う。それが正義であるかのような言い方をする。それを聞きながら思うのは、ワイズマンはそのような消費社会を批判しようとしているのだということだ。しかし、これもいくつかの作品を見て学んだことだが、ワイズマンは問題をそのように単純化しない。
 とにかく、確かに百貨店は商品を売るために存在するのだ。それを実行するためにさまざまな戦略が立てられる。それは客の見ていないところで、密かに立てられる。そして客は商品を買っていく。それは決してだましているわけではない。戦いでもない。この百貨店に限って言えば、彼らはブランドを売っているのだ。そして客はブランドを買っているのだ。
 それを象徴的に示すのは「ストッキングに<ニーマン=マーカス謹製>という刺繍を入れる」というバイヤーの言葉だ。その刺繍こそが客が求めるものである。

 ワイズマンがそのような「ブランド」で紡ぐ物語とは何か?
 はたから見れば、クリスマスシーズンに半袖で歩いている人がいるような街でどうして毛皮が必要なんだ?と思う。しかし、毛皮は売れる。そのような行動こそがワイズマンが捉えようとするものだ。ダラスで毛皮を買う人々は有閑階級であり、ワイズマンはこの映画が有閑階級を描こうとしたものだと明確に表明している。このダラスで毛皮こそが消費社会の象徴である。しかし、ワイズマンはだから有閑階級はダメなのだとは言わない。そのような有閑階級が存在するからこそ消費社会が存在し、このような百貨店が存続でき、従業員たちは仕事にありつける。問題はそこにはない。(余談としては、わたしはダラスで毛皮のコートを着たっていいと思う。真冬にミニスカートを履くんだって同じことだ。ただ、さらに個人的な話をすれば、わたしはそもそも毛皮はあまり好きではない。でも、毛皮を着たい人は(たとえ暑くても)着ればいい。おしゃれとは時に肉体的苦痛を伴うものだ)
 ワイズマンは有閑階級を描こうとしたと明言するにもかかわらず、彼が主にスポットを当てているのはそこで働く人々だ。有閑階級がいることによって存在する従業員たち。ワイズマンが繰り返し問うのは「彼らは仕事に誇りを持っているのか?仕事に満足しているのか?」ということだ。あるミーティングで、ニーマン=マーカスで働いていると特別な目で見られるという話が出てくる。就職希望者は熱烈にニーマン=マーカスへの憧れを語る。つまり、ニーマン=マーカスとは労働者たちにとってもあこがれであり、ステータスであるというわけだ。 つまり、ニーマン=マーカスが象徴する消費社会はダラスにおいては充足しており、問題にはならない。ワイズマンは消費社会を批判するためにこの百貨店を持ち出したのではないのかもしれない。

 ところで、この映画に出てくる商品はことごとく趣味が悪い。最初は進める従業員もお世辞でいっているのだろうと思ったが、どうも本気で言っているらしい。成金趣味の金ピカの宝飾品やわけのわからない柄のスカート。ワイズマンは映画の中でそれらのものの価値判断を行っていないが、好意的だとは思えない。にもかかわらず、そのような露悪趣味を「良いもの」としてしまうのはニーマン=マーカスのブランドであるからである。
 そんな露悪趣味が頂点に達するのは、社長の「マイ・ウェイ」だ。そんな鼻白いことさえも許されてしまう、あるいは積極的に受け入れられてしまう、そんな露悪的な成金趣味をステータスとみなす社会、それがこの映画の中に描かれている社会なのだ。ワイズマンはこのような社会を批判するわけではない。そのような社会が成立する構造を提示し、そのような社会が具体的にどのようなものなのかを視覚化し、その価値判断は観客にゆだねる。それがワイズマンのスタンスだと思う。

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