American Beauty
1999年,アメリカ,117分
監督:サム・メンデス
脚本:アラン・ボール
撮影:コンラッド・L・ホール
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、ゾーラ・バーチ、ミーナ・スヴァーリ、ウェス・ベントリー
アメリカの田舎町、広告会社に勤める父と不動産業を営む母、ティーンエージャーの娘。典型的なアメリカの過程の風景だが、物語は父の自らの死の予告、娘の父を軽蔑する言葉、から始まる。
家庭の崩壊、ドラッグ、ティーンエージャー、アメリカ的なものを並べ、アメリカのイメージを描く。「この国は地獄に落ちる」という言葉が頭に残る。どう見るかによって評価は分かれる。つまらないということはないし、見る価値もあると思うけれど、手放しで誉めるのはどうだろう?
ストーリーを追っていくと、こんなにつまらない作品はないですね。全体が謎解きじみた構成になっているわりに、それが推理ゲームになるわけではない。最初に死を予告しておき、何度も死に言及する割に、それがテーマになってはいない。それはこの映画の構造が、死を予告しておいて、その死によって幕を閉じるということで一見まとまっているように見えるけれど、実際のところ何も解決してはいないということが原因なのかもしれない。このケヴィン・スペイシーの死をめぐる物語が映画の主プロットなのだとしたら、こんなつまらない映画はない。
しかし、実際のところこの映画には主プロットはなく、さまざまな小さなプロットが積み重ねられてできているわけで、その小さなプロットのひとつが最初と最後に突出して、ひとつの物語りじみたまとまりをつけているというだけのもの。しかもその主人公であり、語り部であるケヴィン・スペイシーの心理激であるような印象を全体に残すので、ひとつのまとまりある物語を見たという印象を受けてしまう。
このプロットの展開にだまされてしまうと、なんとなく「いい映画だった」と思ってしまう恐れがある。それはなんとなく奥深いような意味深いような複雑なような印象。
この見せ掛け上の話のまとまりの裏に隠されているのは、アメリカのさまざまな姿で、しかもそれはアメリカの暗い部分というか、問題をはらんだ部分であるということ。一人の中年男の倒錯の物語という覆いにさまざまな問題が隠されている。
この映画の構成はふたつの解釈ができる。一つはいろいろな話をぶち込んで、誰もが引っかかる部分を設け、映画にヴァラエティを持たせて、映画に厚みを持たせる。もう一つは、見せ掛け上の主プロットによって、さまざまな問題を覆い隠し、むしろ問題のほうをうったえかけようとする。
さまざまなほうっておかれる問題、ゲイ差別、ドラッグ、家庭の崩壊、などなどが解決しないのは、現実の反映で、現実でも決して解決されえない問題であると明かしているように見える。そして暗黙のうちに提示される「アメリカ=白人」という構図。
わたしの印象としては、この映画はそれらの問題を問題化していないように見える。そういう問題はあるけれど、それはそれとしてアメリカはアメリカ、人間は人間、みたいな。ちょっとうまくかけないんですが、これらの問題は問題として提示されているのではなく、「こういうことがある」という事実としてある。それを解決しようとかそういうことではなくて、そのような事実が存在するアメリカでどのように生きるのか、そのサンプルのようなものを何人か提示したという形。その生き方のヴァラエティのどれかに見ている人たち(主にアメリカの白人)がはまれば映画と観客の関係はうまくいくという感じ。
そのように感じる一番大きな要素は、音楽の使い方で、誰がどんな音楽を聴くのか、という要素がこの映画で非常に大きな意味を持つ。音楽はいいんですが、それがいいとか悪いとかいうことではなくて、音楽がうまく利用されているということが大きい。そのうまく利用されているということは音楽にとどまらず、すべてのトピックが映画のために利用されていて、全体としては「ゼロ」になるようなそんなつくり。簡単に言ってしまえば、いろいろ意味深いことを言っているようで、結局のところ何も言っていない。そんな映画。
それでいいといえばいいんだけれど、「いい映画」とはいえない。
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