Route One USA
1989年,イギリス,265分
監督:ロバート・クレイマー
脚本:ロバート・クレイマー
撮影:ロバート・クレイマー
音楽:バール・フィリップス
出演:ポール・マッカイザック、ジョシュ・ジャクソン、パット・ロバートソン

 10年ぶりにアメリカに帰り、再会したロバート・クレイマート友人のドク。ふたりはカナダ国境からNYを通り、フロリダのキーウェストまで続くルート1をたどる旅に出ることにした。
 彼らが長い旅路で出会ったのはアメリカが抱えるさまざまな問題、そして問題を抱える人々。カメラに映る医者のドクはアフリカでの経験もあり、それらの問題に対処して、それがどのように問題であるのかを明らかにしていく。
 そして、4時間の旅の果てにはアメリカという国の全貌が浮かび上がってくるに違いない。

 これはロード・ムーヴィーなのだけれど、疾走感はなく題名ともなっているルート1は一つの場所と別の場所を区別するための区切りでしかない。それでも北から南に進むにつれ、着実に気候が変わり、風景が変わる。これは狙いか偶然かはわからないが、結果的にアメリカの多様性を示す一つの要素となっている。
 もちろん、この映画で示されるのは人種をはじめとした人々が持つ多様性であり、そこに存在するさまざまな問題である。最初からインディアンの問題がクローズアップされるようにこの映画で一番目をひくのはマイノリティの問題だ。もちろんその問題は重要だが、クレイマーは必ずしもそればかりを問題にするわけではない。彼の捉えるマイノリティとはおそらく人種や民族という問題にはとどまらない。NYのような都会と広大な田園地帯というアメリカのイメージとは違う荒廃した土地に住む人々のすべてが彼にとってのマイノリティなのだろう。しかし、本当にアメリカを支えているのは、そんな名もない人々であり、それはアメリカと第三世界の関係が国内にも鏡像のように存在していることを示している。
 にもかかわらずアメリカがアメリカでいられるのは戦争のおかげなのかもしれない。ドクが戦没者の名前が刻まれた長い長い碑の前に何日も佇むとき、そこに刻まれた名前を持っていた人々について考える。名前にしてしまえば何の違いもなくなってしまう人々。これはおそらくアメリカの平等幻想を象徴的に示している。決して平等ではないのに、平等であるかのような気分に浸る。そうして人々はアメリカ人でいられる。
 アメリカとは一種のフィクションによって成り立っている国なのではないか。人々が共通して抱える幻想、それを一種の紐帯として人々が結びつき、一つの国家として成り立っている。この映画を見ていたら、そんなイメージが頭の中に浮かんだ。

 フィクションといえば、この映画の主人公ドクとはいったい誰なのか。映画の言葉を信じてクレイマーの友人の医者、アフリカに10年間いて久しぶりに帰って来た。としておいていいのだろうか。彼の本当の旧友らしい男と会ったり、兵隊にいたころの思い出話をしたりする。しかし、他方で彼はクレイマーの分身であり、クレイマーとして振舞っていることもあるだろう。
 彼は一つの町で医者の仕事に戻るといって急に旅をやめる。それからしばらくはクレイマーの、つまり被写体のいないカメラの、一人旅となる。しかし、キーウェストで唐突にドクはカメラの中に復帰し、そこの病院に仕事を見つける。恋人らしき人もできる。
 ドキュメンタリーと信じてみたらならば、そこに違和感はない。しかし、疑い始めたらいくらでも疑える。そのような自体から感じられるのは、それがドキュメンタリーであるかフィクションであるかを問うことの無意味さだ。
 クレイマーが追求しているのはリアルなアメリカを描写することであり、そのための手段がドキュメンタリーといわれるものであってもフィクションといわれるものであってもいいのだ。それは彼の映画を撮るということに対する姿勢をも示している。カメラを向けられたとき、人は日常そのままではいられない。そこには一つのフィクションが成立し、被写体となる人々は日常の自分を演じるようになる。クレイマーがそこにフィクションといわれるものを導入するのはそこで日常を演じるのが本人でなくてもいいと思ったからだろう。それをうそというのは自由だが、そのうそを写した映画は、現実で本当であることを映した映画よりも、現実の本当に近いものになるだろう。だからクレイマーはドキュメンタリーにフィクションを導入する。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です