マリーゴールド・ホテルで会いましょう

 長年連れ添った夫を亡くしたイヴリン、退職後に暮らす老人用の家を見て回るダグラスとジーンの夫婦、知人の訃報に接し突然判事を辞めることにしたグレアム。「これから」に悩む彼らが見つけたのはインドにある長期滞在型の高級リゾートホテル。オープンしたばかりというそのホテルに7人の老人たちが客として集まるが…
英国を代表する名優たちが異国で戸惑う老人たちを演じたヒューマンコメディ。監督は「恋におちたシェイクスピア」のジョン・マッデン。

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最高のふたり

 ショーンは車椅子生活の親友ダズとその息子ダニエルと暮らしている。ダズの余命がもう少ないことを知ったショーンは2人の幼なじみのケイティに連絡を取ろうとするが、ショーンとケイティの間にはわだかまりがあり、なかなか思い切ることができない。そんな中で、ショーンは3人で過ごしたある夏のことを思い出す。
イギリスの田舎の労働者階級の日常。ごく普通の人達の極普通の生活を描いた佳作。

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ヴィック・ムニーズ ごみアートの奇跡

ヴィック・ムニーズ

 ブラジル出身で現在はNYを拠点に活躍する現代アーティストのヴィック・ムニーズ。彼はさまざまな材料を使って絵を描き、それを写真に収めた作品を作ってきた。そのヴィックがリオ・デ・ジャネイロにある世界最大のゴミ処理場に2年間滞在し、作品を作るというプロジェクトを始める。ブラジルでの相棒ファビオとともにゴミ処理場に赴き、そこで働く“カタドール”と呼ばれる人々をモチーフにそこにある「ゴミ」を使って作品を作り始める。
現代アーティストのヴィックがアートを通じてゴミ処理場で働く人々と交流し、彼らを変えていく過程を描いた感動的なドキュメンタリー。監督は「カウントダウンZERO」などのルーシー・ウォーカー。

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ブリッツ

 イギリス、サウスロンドン署の刑事ブラントは近所で車を盗もうとしていた若者を袋叩きにする。暴力沙汰で何度も問題を起こしているブラントは静かにしているよう命ぜられるが、警察官を狙った連続殺人事件が起き、捜査に乗り出す。犯人の目星はすぐつくのだが…
「トランスポーター」シリーズのジェイソン・ステイサム主演のクライム・アクション。ハリウッドのパターンからはちょっと外れた味わいが良い。

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プロジェクト・ニム

1970年代、コロンビア大学のハーバード・テラス教授はチンパンジーが人間のように言語を覚えられるかを研究するため、生後2週間のチンパンジーを元教え子のステファニーの元で育てさせることを考える。ニムはステファニーの元ですくすくと育つが、放任しすぎて研究にならないと考えたテラスはニムを訓練に専念できる環境に移し、研究を続けるが…
70年代に「手話ができるチンパンジー」として有名になったニムの生涯を資料映像と関係者へのインタビューで構成したドキュメンタリー。いろいろモヤモヤ。

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ルート1

Route One USA
1989年,イギリス,265分
監督:ロバート・クレイマー
脚本:ロバート・クレイマー
撮影:ロバート・クレイマー
音楽:バール・フィリップス
出演:ポール・マッカイザック、ジョシュ・ジャクソン、パット・ロバートソン

 10年ぶりにアメリカに帰り、再会したロバート・クレイマート友人のドク。ふたりはカナダ国境からNYを通り、フロリダのキーウェストまで続くルート1をたどる旅に出ることにした。
 彼らが長い旅路で出会ったのはアメリカが抱えるさまざまな問題、そして問題を抱える人々。カメラに映る医者のドクはアフリカでの経験もあり、それらの問題に対処して、それがどのように問題であるのかを明らかにしていく。
 そして、4時間の旅の果てにはアメリカという国の全貌が浮かび上がってくるに違いない。

 これはロード・ムーヴィーなのだけれど、疾走感はなく題名ともなっているルート1は一つの場所と別の場所を区別するための区切りでしかない。それでも北から南に進むにつれ、着実に気候が変わり、風景が変わる。これは狙いか偶然かはわからないが、結果的にアメリカの多様性を示す一つの要素となっている。
 もちろん、この映画で示されるのは人種をはじめとした人々が持つ多様性であり、そこに存在するさまざまな問題である。最初からインディアンの問題がクローズアップされるようにこの映画で一番目をひくのはマイノリティの問題だ。もちろんその問題は重要だが、クレイマーは必ずしもそればかりを問題にするわけではない。彼の捉えるマイノリティとはおそらく人種や民族という問題にはとどまらない。NYのような都会と広大な田園地帯というアメリカのイメージとは違う荒廃した土地に住む人々のすべてが彼にとってのマイノリティなのだろう。しかし、本当にアメリカを支えているのは、そんな名もない人々であり、それはアメリカと第三世界の関係が国内にも鏡像のように存在していることを示している。
 にもかかわらずアメリカがアメリカでいられるのは戦争のおかげなのかもしれない。ドクが戦没者の名前が刻まれた長い長い碑の前に何日も佇むとき、そこに刻まれた名前を持っていた人々について考える。名前にしてしまえば何の違いもなくなってしまう人々。これはおそらくアメリカの平等幻想を象徴的に示している。決して平等ではないのに、平等であるかのような気分に浸る。そうして人々はアメリカ人でいられる。
 アメリカとは一種のフィクションによって成り立っている国なのではないか。人々が共通して抱える幻想、それを一種の紐帯として人々が結びつき、一つの国家として成り立っている。この映画を見ていたら、そんなイメージが頭の中に浮かんだ。

 フィクションといえば、この映画の主人公ドクとはいったい誰なのか。映画の言葉を信じてクレイマーの友人の医者、アフリカに10年間いて久しぶりに帰って来た。としておいていいのだろうか。彼の本当の旧友らしい男と会ったり、兵隊にいたころの思い出話をしたりする。しかし、他方で彼はクレイマーの分身であり、クレイマーとして振舞っていることもあるだろう。
 彼は一つの町で医者の仕事に戻るといって急に旅をやめる。それからしばらくはクレイマーの、つまり被写体のいないカメラの、一人旅となる。しかし、キーウェストで唐突にドクはカメラの中に復帰し、そこの病院に仕事を見つける。恋人らしき人もできる。
 ドキュメンタリーと信じてみたらならば、そこに違和感はない。しかし、疑い始めたらいくらでも疑える。そのような自体から感じられるのは、それがドキュメンタリーであるかフィクションであるかを問うことの無意味さだ。
 クレイマーが追求しているのはリアルなアメリカを描写することであり、そのための手段がドキュメンタリーといわれるものであってもフィクションといわれるものであってもいいのだ。それは彼の映画を撮るということに対する姿勢をも示している。カメラを向けられたとき、人は日常そのままではいられない。そこには一つのフィクションが成立し、被写体となる人々は日常の自分を演じるようになる。クレイマーがそこにフィクションといわれるものを導入するのはそこで日常を演じるのが本人でなくてもいいと思ったからだろう。それをうそというのは自由だが、そのうそを写した映画は、現実で本当であることを映した映画よりも、現実の本当に近いものになるだろう。だからクレイマーはドキュメンタリーにフィクションを導入する。

舞台恐怖症

Stage Fright
1950年,イギリス,110分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:セルウィン・ジェプソン
脚本:ウィットフィールド・クック
撮影:ウィルキー・クーパー
音楽:レイトン・ルーカス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ジェーン・ワイマン、リチャード・トッド

 舞台俳優のジョナサンが来るまで友人のイヴに告白する。彼は愛人の女優シャーロットが夫を殺し、自分の部屋に助けを求めて駆け込んできたという。そして、その血みどろのドレスを始末しようとしているところを女中に見つかって逃げてきたのだと…
 ハリウッドに渡ったヒッチコックが、イギリスに戻り、ディートリッヒを迎えて撮った作品。おそらくハリウッドとは違うヨーロッパ的なサスペンスを作ろうと考えてのこととみえ、ドラマの仕立て方も謎解き中心の落ち着いたものになっている。

 このサスペンスの展開には賛否両論あると思います。その内容はネタがばれてしまうので言えませんが、結局のところ観客を巧妙にだますことで謎解きが難しくなっているというところがある。ひとつの「うそ」が物語の鍵になるということですね。その「うそ」が見終わったときに映画全体の緊迫感を弱めてしまうような感じになってしまう。そのような意味であまり後味がよくない、ということです。
 が、しかし、その「うそ」に全く気付かなかったわたしは、「してやられた」という気持ちで映画を見終わり、エンドクレジットの直後には「さすがヒッチコックよのお」とさわやかに思っていたのでした。だからこれはこれでいいとわたしは思うのです。後から振り返ってみると、「なんかなぁ」と思うけれど、その120分間は充実したもので、見るほうは純粋に謎解きに頭を使って、あーでもないこーでもないと考えるわけです。この作業が楽しいわけで、それで十分ということです。(だからネタばれは絶対ダメなのね)
 後はディートリッヒということになりますが、この映画のころすでに40代後半、さすがに要望の衰えは隠せません。おそらくハリウッドのライティング技術を生かし、観客の心に残るかこの映像を生かし、美しくは見えるものの、若いジョナサンが夢中になるほど美しいかというとなかなか難しいところです。若さを取り繕うせいか、表情も少し乏しい。まあ、その表情の乏しさは、男を陥れようとする「魔性の女」(ファム・ファタルというらしい)っぽさを演出していていいのですが。
 それにしても、ヒッチコックらしいと思ったのはやはりライティング、大事な場面ではライティングがその恐怖心や、同情心をあおる重要なポイントになっています。先日の『レベッカ』のときも書いた気がしますが、ヒッチコックはやはりライティングが重要なのでしょう。後は、ヒッチコック自身がどこに登場するかということも!

華氏451

Fahrenheit 451
1966年,イギリス=フランス,112分
監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック

 モンターグは、全面的に禁止されている本を探索し焼却する「消防士」として有能な青年で、上司に昇進も約束されていた。ある日モンテーグは帰りのモノレールの中で近所に住むクラリスという女性に声をかけられ、クラリスは「本を読んだことがあるの?」と聞く。家でテレビを見、くすりで恍惚感に浸るばかりの妻と見た目はそっくりながらはつらつとしたクラリスに魅かれた彼は徐々に彼女と親しくなっていく。
 トリュフォーがレイ・ブラッドベリの近未来SFを映画化。初の英語圏作品だが、ニコラス・ローグ、バーナード・ハーマンなど多彩な才能に恵まれ、フランス語作品に全く見劣りしない作品に仕上がっている。

 最初の「逃げて」「逃げて」「逃げて」からかなりすごい。
 おそらくこれは原作も非常に面白いはずで、それを見事に映像化したトリュフォーもすごいということ。原作ということで言えば、「本が禁じられる」という設定と、それを取り締まる「消防士(fireman)」という発想が非常にうまい(全部が耐火住宅になったからって、消防士がいらなくなるという設定はかなり無理があるけれど)。禁止されるということと欲望との関係、それを本を利用してうまく描いているということ。
 しかし、やはりさらにすごいのはトリュフォー。近未来の世界観。1960年代から見た近未来なので、今頃のことかもしれない。壁にかけられたスクリーン、モノレール、規格化された住宅、などなど細部ではいろいろと「ちょっとね」と思うところもあるけれど、ひとつの寒々しい時代のイメージを作るのに成功している。「消防車」以外に車が全く走っていないというのも非常に印象的な設定である。そして本が燃えていくシーンのすばらしさ。本を読むシーンのすばらしさ。このすばらしさは主人公のモンターグよりむしろ「本」に焦点を当てることによって可能になっているのだろう。もちろん普通に考えれば主人公はモンターグなのだけれど、無表情で言葉すくなな彼の心情を明らかにすることよりも、彼が魅入られた本を描くことで彼と彼に代表される本に魅入られる人々の心理を審らかにあらわす。
 本が燃えていくシーンに心動かされるのは、そのように「本」というものに感情移入ではないけれど、愛着を覚えているから。そしてそのような「本」への愛着を生み出すのもその本が燃えていくシーンであるというのも面白い。繰り返される本が燃やされるシーン、そのそれぞれを自分がどのように見つめているのか、それを見つめ返してみるとこの映画のすごさがわかるのだと思う。
 そのように「本」への愛着がわけば、おのずとラストシーンもしっくり来るでしょう。ラストシーンは映像もとても効果的。ラストに限らず、この映画の映像はかなりいい。特に人間があまりいないシーンがいいですね。ネガとか、そんな実験的なものはちょっとよくわからなかったですが、ただ風景が映っているようなシーン、あるいは人がすごく小さく写っているようなシーンの構図がとても美しかった。

シャンプー台の向こうに

Blow Dry
2000年,イギリス,95分
監督:バディ・ブレスナック
脚本:サイモン・ビューフォイ
撮影:シャン・デュ・ビトレア
音楽:パトリック・ドイル
出演:ジョシュ・ハートネット、アラン・リックマン、ナターシャ・リチャードソン、レイチェル・グリフィス、レイチェル・リー・クック

 イギリスの田舎町キースリー。市長が記者会見場で高らかに宣言したのは、「全英ヘアドレッサー選手権」の開催地に決まったということだった。報道陣たちは興味を失って去っていく中、一人興味を示したブライアン。父親のフィルとともに田舎町で美容院をやっているが、実はその父がもと全英チャンピオンだったのだ。しかし、父親は選手権に興味を示そうとはしない…
 また、イギリスらしいイギリス映画ひとつ。イギリス映画らしい風景にイギリス映画らしい感動。イギリス映画好きにはたまらない作品ですね。

 イギリス映画らしい田舎町に、イギリス映画らしい家族の物語、イギリス映画らしいストーリーがあって、アメリカ育ちの娘がやってきて… 羊も出てくる。何もかもが絵に書いたようなイギリス映画。このイギリス映画らしさはどうもアメリカから見た「イギリス映画」像のような気がしてしまう。主役級の若者2人もハリウッドの若手スターとなると、どうもハリウッド向けという「臭さ」ぷんぷんが漂う。それはつまりなんとなくうそ臭さを感じてしまうということ。周到に感動できるように組み立てられてはいるけれど、その「臭さ」を感じてしまうと、その感動の押し付けがましさが気になってくる。そうはいってもちょっと感動してしまったのですが、そんな風に感動してしまった自分が悔しい気分。
 というようなうがった見方をしさえしなければ、なかなかいい作品です。レイチェル・リー・クックはかわいいし、ジョシュ・ハートネットも情けなくていい味出してるし、感動できるし、その割にコメディの要素も忘れないし。 さて、そんなイギリス映画らしいイギリス映画だったわけですが、ひとつレズビアンという要素が出てきたところがちょっと毛色の変わった感じ。これもアメリカ向けという気もしないでもないですが、奥さんが女の人と逃げるというのはイギリス映画ではなかなか見ない展開。これを見て真っ先に思い出したのは、テレビドラマの「フレンズ」で、それはそれだけアメリカ的なトピックだということなのかもしれません。
 そういう意味でも、絵に書いたようなイギリス映画でありながら、どうもハリウッドの影が見えてしまうという映画。

私が愛したギャングスター

Ordinary Decent Criminal
2000年,イギリス,95分
監督:サディウス・オサリヴァン
脚本:ジェラード・ステムブリッジ
撮影:アンドリュー・ダン
音楽:ダイモン・アルバーン
出演:ケヴィン・スペイシー、リンダ・フィオレンティーノ、ピーター・ミュラン

 ダブリンで次々と強盗を成し遂げていくマイケル・リンチと仲間たち。2軒の家に帰れば妻と義妹とたくさんの子供たちが待っている。警察を挑発し、子供たちにも警察を信じるなというおとぎ話を聞かせる。そんな彼が妻と見に行ったカラヴァッジョ展で名画「キリストの逮捕」に心魅かれる。
 売れっ子ケヴィン・スペイシーがイギリスに呼ばれちょっと変わったギャング映画を撮る。ケヴィン・スペイシーはイギリス映画の雰囲気にもよくはまり、むしろアメリカでやっているよりいい感じ。

 まず、映画の表層をなぞっていくと、面白いのは音楽のミスマッチ感と、空想と思わせるシーン。人のクロースアップになった後、シーンが続くとそれがその人の空想であるように思えるのはわかりやすい映画の文法だが、この映画はその文法を使いながら、そのようなシーンが必ずしも空想ではなかったりする。あるいは空想があまりにぴたりとあたっているのか。そうでなければ未来の出来事が前倒しで映像化されているということなのか。その出来事のつながり方のギクシャクした感じもなかなかいい。
 それにしても、この映画はなかなかとらえどころがない。マイケル・リンチは冷酷なところも見せながら人をひきつけるキャラクターだ。そもそも人は何故か「よい泥棒」というものに惹かれるらしい。このマイケル・リンチは必ずしもよい泥棒ではないかもしれないが、味のある泥棒であることは確かだ。その味のある泥棒が名画を盗み、もとの持ち主である教会に帰す。別に教会は明確に「返してほしい」といっているわけではない。それがオリジナルであっても複製であっても同じという態度だ。その複製を気づかれないようにオリジナルにすりかえておくマイケル・リンチの意図は何なのか。単純に絵が教会にふさわしいと考えただけなのだろうか。
 展覧会で警備員に守られて飾られているときより、教会で神父たちが食卓を囲む上にかかっていたほうが光景として美しいことは確かだ。それをうまく映像によって伝えている。観客はマイケル・リンチの視点になってそれを満足げに眺める。それでいいということなのかもしれない。
 単純にサスペンスとは言い切れないかなり不思議な味わいの映画でした。