Kill Bill : vol.1
2003年,アメリカ,113分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:RZA、ラーズ・ウルリッヒ
出演:ユマ・サーマン、デヴィッド・キャラダイン、ダリル・ハンナ、ルーシー・リュー、ソニー・千葉、栗山千明、ヴィヴィカ・A・フォックス、ジュリー・ドレフュス、麿赤兒、國村隼、田中要次、風祭ゆき

 ひとりの女がある家を訪ねる。挨拶もなく、そこで闘いが始まる。その闘いはその家の娘が帰ってきたところでいったん幕を下ろす。その訪ねてきた女は実は元暗殺集団の一員で、4年余り前、結婚式のその場で仲間になぶり殺しにされたかに見えたが、奇跡的に一命を取り留めた女だった。彼女は自分をリンチした相手に復習することを誓い、復習するべき相手をリストにしていた…
 日本のB級映画を愛してやまないタランティーノが深作欣治にささげた仁侠映画風アクション映画。ルーシー・リューに和服を着せ、アクションはユエン・ウーピンと、アジアなら何でもありかい!的な匂いが漂う怪作。果たしてこれは名作なのか駄作なのか。その判断は1話分の尺に収まらず、2部立てとなってしまったその第2部をみて初めてつくのかもしれない。

 この映画はすべてが「フェイク」である。元ネタがあり、それを模倣しているが、それのやり方はパロディではなく、フェイクである。パロディとは元となるモノを茶化し、笑いへと転置する方法であるが、フェイクとは単純な模倣、偽物を作ることに他ならない。同じようなものを作りたいためにまねするのか、あるいは元になるものを愛してやまないがために真似をするのか、あるいはただ真似したいから真似するのか、そのあたりの理由には関係なく、真似をして作られた偽物であるということがすなわち「フェイク」であるということだ。
 この映画のもっとも明らかな元ネタは梶芽衣子主演の『修羅雪姫』であることは様々な風評からすでに明らかなことだ。元ネタの詳細は忘れてしまったが、基本的な物語もどこか似ている(様な気がする)。それはそれとして、ラストにはテーマ曲が引用されることから、それは明らかなのだが、何といってもあの血飛沫である。『修羅雪姫』をみて、映画の筋を忘れることは簡単だが、あの血飛沫を忘れることは難しい。そして、血に真っ赤に染まった波打ち際もはっきりと記憶に刻まれる。この『キル・ビル』もヒトを斬った時には血が噴水のように噴出し、池が真っ赤に染まる。真っ赤に染まるのが海からちんけな(しかし金のかかった)セットの池に代わったというのもこの映画の「フェイク」精神の顕われかもしれない。
 「フェイク」と言えば、話される日本語もまるっきりの偽物だ「やっちまいな!」と言っているらしいオーレン・イシイの決め台詞。何度聞いても「ヤッチェマナウ!」(意味不明)にしか聞こえない。逆にソニー千葉の英語もフェイクだ。これはルーシー・リューの日本語がフェイクであることにきづかなそうなアメリカの観客へのサービスだろうか。あるいは名前も。「服部半蔵」あたりはフェイクを越えてパロディの感もあるが、ゴーゴー夕張あたりはかなりフェイクの匂いが漂う。

 フェイクとパロディ、これは本質的に違うはずのものだが、この映画は結果的にフェイクとパロディのあいだをさ迷っている。いわゆるアクション映画のパロディとフェイクの間をさ迷ってしまうのは、アクションシーンがユエン・ウーピンによる本物だからなのかもしれない。その本物のアクションシーンをいかにフェイクにするのか、タランティーノはそれに腐心して、ユマ・サーマンにブルース・リーの衣装を着せ、無理から手摺の上でアクションさせ、ありえない斬られ方をさせてみた。そのようにして何とかまっとうなアクションにならないようにした結果、それはフェイクに近づくと同時にパロディにも近づいてしまった。そんな印象がある。

 さて、タランティーノは何故ここまで執拗に「フェイク」たらんとしたのかを考えてみる。それはまず、そもそも元ネタにされている日本のB級映画というのが「フェイク」なのである。『修羅雪姫』もある意味では仁侠映画のフェイクである。もっとわかりやすい例を上げれば、この映画に登場する航空会社「エアO」の飛行機、これはあからさまに模型で、妙に赤い空のバックを飛んでいる風なわけだが、これを見るに付け思い出すのは京マチ子主演の『黒蜥蜴』である。そこで舟が登場するのだが、これがまた見事な模型。その舟は水槽の波に木の葉のように揺れるのだ。そしてこの『黒蜥蜴』がどう見てもフェイク・ミュージカルなのである。そこまで追求してしまうと自ら映画オタクと言い放つタランティーノの側に与してしまうことになるので、このあたりでやめるが、そんな「フェイク」が好きでたまらないタランティーノが自分も「フェイク」を作りたいと思ってきたであろうことは想像に難くない。

 ここでもう少し真面目に考えると、映画とはそもそもが現実の「フェイク」であるという事実も考えたい。映画とは現実を模造しようと始まった芸術である。いまでは必ずしもそうではないが、映画の本質には現実のフェイクであるという面が必ずどこかにある。
 そのような映画がわざわざ「フェイク」たらんとするということはどういうことか。おそらくタランティーノは世の中に「いかにも現実であろうとするフェイクが多すぎる」ということを憂えているのではないかと思う。憂えてはいないにしても、面白くないと思っているのではないかと思う。「いくら現実ぶったってフェイクはフェイクだ」ということを真摯に見つめない限り、映画なんて成り立たないとでも言いたげなのである。
 そのように思ったからこそ、フェイクのフェイクであるこの映画を作ろうとしたのではないか。そもそもフェイクである映画のフェイクであるような映画。そんな映画のフェイクという三重化されたフェイクを作ることで映画がフェイクであるという忘れがちな当たり前のことを想起させる。そんな狙いがあったのではないかと邪推してしまう。多分そんなことは考えていないと思うが、というよりそもそもタランティーノがどう考えていようとどうでもいいのだが、そんな風なことに目を向けさせてくれるこの映画はただのバカ映画ではないのだと私は見る。あるいは、この映画はただのバカ映画だが、バカ映画であるがゆえに見えてくるものもあるということだ。

 この映画が映画として面白いのかどうなのかは、vol.2を待たねばならないだろうが、二部構成にしてしまったがために、少し冗長な感じになって、タランティーノ独特のスピード感が薄れてしまった気がするのは残念だ。vol.2がどれくらいのものかはわからないが、何とか頑張って2時間半か長くて3時間弱に収めて1本の映画にしてくれたほうが、タランティーノらしい面白い映画になったのではないかとも思ってしまう。

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