Mo’ Better Blues
1990年,アメリカ,129分
監督:スパイク・リー
脚本:スパイク・リー
撮影:アーネスト・ディッカーソン
音楽:ビル・リー、ブランフォード・マルサリス
出演:デンゼル・ワシントン、スパイク・リー、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジート、ロビン・ハリス、ジョイ・リー、ビル・ナン

ブリークはハーレム育ちだが、教育ママの母親にトランペットの練習をさせられて、トモダチとろくに遊ばせてもらえなかった。しかしその甲斐あってか新進気鋭のトランペッターとなり、自分のバンドを率いて、幼馴染のジャイアントをマネージャーにして毎日クラブを満員にしていた。しかし彼の生活は音楽一色で、他の人と心を通わせようとすることもなかった…

『ドゥ・ザ・ライト・シング』でブラック・カルチャーの枠から飛び出して広く知られるようになったスパイク・リーがジャズへの思いを込めて撮った静かな映画。デンゼル・ワシントン、ウェズリー・スナイプス、ジャンカルロ・エスポジートなど若き黒人スターが出演しているのも楽しい。

物語を追っていけば、どうということのない映画。ある一人のジャズマンの一生というか、半生を追っただけ。こんなジャズマンはニューヨークにごまんといるだろう。だからこそスパイク・リーはそのような人物を描く。ある一人のジャズマン、それはある一人の野球選手、ある一人のバスケット選手でも同じことなのかもしれない。しかし、映画的にはジャズマン。ブラックの心、アフリカの心、それがジャズにあるのだとスパイク・リーはかたくなに信じているようだ。ヒップホップやリズム・アンド・ブルースだって、あくまで広い意味でのジャズから出てきたもので、アメリカの黒人の心に流れるのはジャズのリズムだ。

デンゼル・ワシントンが映画の中でクロスオーバーについて語り、黒人が俺の音楽を聞きにこないと嘆くその言葉にスパイク・リーの気持ちは込められている。そのような音楽への思いに突き動かされて作られた映画だけに、主役は音楽で、役者ではない。デンゼル・ワシントンがどのような人と関係を結んでもどこか空々しくめいるのは、彼の自己中心性よりもむしろ、それが映画の主題ではないからなのだ。そこにあるのは音楽、音楽、音楽。この映画で人々を動かすのは音楽で、それだけ。

その中で非音楽的な存在としているのがインディゴで、彼女だけは音楽とは関係ないところに存在している。だから彼女は映画に波風を立て、音楽のリズムを乱す。この映画の終盤が面白くないと思えてしまうのは、映画の全般にわたって映画を突き動かしてきた音楽というものが奪われ、非音楽が映画を支配するから。だからどうも違和感を感じ、音楽が覆ってきたこの映画の退屈さがあらわになってしまう。

しかし、私はこの退屈さも好きだ。「吹けなくなったらどうするの?」と聞いたインディゴの言葉、その言葉が映画に立てる波風、それによってもたらされる新たな人生、しかしブリークは音楽を失っておらず、心にはリズムがある。この終盤であらわされるのは、音楽的な人生と非音楽的な人生があるということではなく、人生とは音楽であり、人生とは常に音楽的であるということだ。ブリークは音楽を奪われてしまったけれど、心にはリズムがあり、最初から非音楽的な存在として描かれてきたインディゴも音楽を持たなかったわけではないということ。

スパイク・リーは音楽を特別なものとはみなさずに、人生そのものだと捉えている。この映画では音楽はそのように現れる。だから音楽にあふれているにもかかわらずこの映画はすごく静かだ。

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