上院選挙に立候補した若手政治家のデヴィッドはスキャンダルによって選挙に破れてしま。しかし、敗北宣言をする直前にエリースという女性に出会い正直さを取り戻す。再出発の日、偶然彼女に再会するが、会社で謎の男たちに出会い、人々の運命を調整する「運命調整局」の存在を知らされ、彼女には二度と会わないように言われるのだが…
フィリップ・K・ディックの短編小説をマット・デイモン主演で映画化。SFというよりは神話?

 人間が知らない所でその運命を調整する人達がいるという前提。それを突き詰めていくと、運命とは定められているものなのか、それとも自分で切り開くものなのか、という根本的な問いにたどり着く。これはいわゆる「運命論」「宿命論」の考え方なわけで、それは否応なく宗教と結びつく。

この作品でも、“チェアマン”と呼ばれるこの機構のトップらしき人物がいることが示唆されて、まあそれはおそらく神のことなんだろうなということがわかるようになっている。主人公は、そのチェアマンが書いた運命から逃れようとするわけなので、それが成功したならば「宿命論」を否定することになるというわけだ。

しかし、まあそうはならないわけで、宿命論というのはどうなっても結局は「宿命だ」といえば片付いてしまう言ってしまえば不条理な考え方である。この作品の場合、様々な状況や選択によって未来は変化するが、それがどうなるかは予想できるので、望ましい未来にたどり着くように人類を導いていくという役割を神が果たしていると解釈することが出来る。だから「前もって決まっていた」とは言えないにしろ、人は神の掌からは逃れられないということは否定されていない。

こういう宗教的な話というのは好き嫌いがあるけれど、私は別に嫌いというわけではない。しかし、この映画の場合ははっきり言って全く面白くない。まず不満に思うのは、このような哲学的な命題をテーマにしながら、登場する人たちはまったくその哲学的な部分について考えようとはしない。即物的な現在や未来について考えるばかりで、そのようなシステム全体の意味というものを考えようとは決してしないのだ。終盤でチェアマンについてほのめかされるものはあるけれど、なんというか前提を疑問視しないというスタンスがどうにも頷けないのだ。

そしてもう一つ、ハリウッド映画では定石ではあるが、この「ゴッド・セイブ・アメリカ」的な映画というのがどうにも好きになれない。この映画が言わんとしているのは要するに、「神様が世界のために誰がアメリカ大統領になるべきかを決める」ということだ。「アメリカを救えば世界も救われる。だからお前はアメリカ大統領になるんだ」と神様が決めるわけだ。そんなバカな話があるか?

ハリウッドは娯楽映画を作るということについては本当に世界一だと思うけれど、こういう作品を本当に度々作る。アメリカ人はこういう映画を観て喜ぶのだろうか?この映画も離れた場所をつなぐどこでもドア的なドアを使った場面転換の素早さとか、エンターテインメントとして面白い要素は結構あるのだけれど、全体的がそのような感じなので残念な印象しか残らなかった。

2011年,アメリカ,106分
監督: ジョージ・ノルフィ
原作: フィリップ・K・ディック
脚本: ジョージ・ノルフィ
音楽: トーマス・ニューマン
出演: アンソニー・マッキー、エミリー・ブラント、ジョン・スラッテリー、テレンス・スタンプ、マイケル・ケリー、マット・デイモン

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