演劇2

 日本を代表する劇作家・演出家のひとりである平田オリザ、彼が主催する劇団「青年団」は東京にある「こまばアゴラ劇場」を中心に活動を行なっている。「観察映画」を実践するドキュメンタリー映画作家想田和弘はその青年団の稽古や本番、事務仕事から平田オリザの様々な活動にまで密着、4年の歳月をかけて『演劇1』『演劇2』という2本の作品にまとめあげた。
その「2」では、講演や交渉などの演劇そのもの以外の活動や海外公演、新たな試みとして取り組む「ロボット演劇」に焦点を当て、演劇とその外部との関係を描き出した。

 こちらの「2」も「1」同様タイトル通りの演劇の物語である。しかし今度は演劇とは何かではなく、演劇と社会との関係性について語った作品になっている。演出家平田オリザは演出をしているだけでなく、演劇にまつわるさまざまな活動を行い、時には演劇とは関係ないような活動もする。

中でポイントとして出てくる一つが助成金だ。公的な助成金を得ることなしに青年団を続けることはできないと平田オリザは言う。そして助成金が下りるかどうかを決めるのは「実績」であると。しかし、橋本市長の文楽発言ではないけれど、芸術の「実績」を行政がどうやって判断するのか、助成金を確実にもらうためにはその判断基準を理解して戦略的に実績を積み重ねていく必要がある。平田オリザはそれを理解し、それに見合った実績をしっかりと上げていく。

助成金のために活動をするというのは、芸術としてどうなのかという疑問も浮かぶが、彼のモットーは青年団の事務所に掲げられている「まず食うこと それから道徳」なのだ。だからまず食うためにやらなければならないことをやる。そして、そのやらなければならないこととはすなわち社会と関わっていく事なのだ。平田オリザは青年団の先頭に立って社会との媒介役になる。そして、それを推し進めていくうちにいつしか演劇界全体と社会を媒介する役目をも応用になっているのだ。彼ほど演劇と社会を関わらせる活動をしている演劇人が他にいるのだろうか?

さて、具体的にどのような活動をしているのか。「1」を観ればわかるように、演劇に対しては非常にストイックで完璧主義に見える平田オリザだが、演劇の外に顔を向けた時には非常に社交的な面を見せる。その相手は子どもたち、支援者、なぜかメンタルヘルスケアの大会、そして政治家と多岐にわたり、演劇をやるために仕方なくやっていると言うよりは、それ自体に意義を見出しているようにも見える。

作品はその劇団外での活動を追っていくが、それはいつしか海外公演やロボット演劇へとつながっていく。それは演劇そのものとの関わりではあるけれど、青年団の公演が基本的に劇団員とだけ関わるものであるのに対し、これらの講演は外国の俳優やロボット技術者という劇団の外部の人達と関わらなければできない演劇なのである。その意味で、これらの活動もやはり(日本の)演劇がその外部(つまり社会)と関わるものだという事になる。

純粋に映画としてみると『演劇1』のほうが面白いかもしれない。しかし、勉強になるというか考えさせられるのは『演劇2』の方だ。彼ほどの演劇人が本職だけでは劇団員を食わしていけないという事実、それは演劇だけでなくアート全体を取り巻く貧困さ、困難さを表している。ここで描かれる演劇と社会の関係は、アート一般と社会との関係でもある。その上で、この作品から読み取れるのは、平田オリザはそのような社会に対して積極的に働きかけているということだ。助成金をもらうために活動をするというのは自分を社会に合わせているように見えるが、実際に彼が行なっている活動の多くはアートを取り巻く社会の仕組みや人々の考え方を変えようというものだ。彼は単に実績を積み上げるだけでなく、そのようにして社会の受け止め方をも変えようとしているのだ。

翻ってこの映画について考えてみるとどうだろうか?この映画も実はこのような平田オリザを見せることによって演劇やアートに対する人々の見方を変えようとしているのかもしれない。そのような「狙い」を具体的に設定しているかどうかはわからないが、この作品を観た人はきっと演劇と社会の関係、そしてその未来について思いを馳せるはずだ。それはその人が考え方を変える第一歩になるかもしれない。そのような意味で、この映画は平田オリザを追いかけながら彼がやろうとしているのと同じ事をやろうとしているといえるのかもしれないのだ。

DATA
2012年,日本=アメリカ,172分
監督: 想田和弘
撮影: 想田和弘
出演: 平田オリザ、青年団

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