バレンタイン一揆

 高校3年生のまほちゃんとアリカ、大学2年生のこっちゃんの3人はNPO団体のワークショップで出会い、「児童労働」について知るためにケニヤへと向かう。現地ではまず首都で現状について勉強、その後10時間をかけて僻地のカカオ生産地へ旅をする。NPO団体の活動の結果、児童労働の根絶に成功したその村で彼女たちは子どもたちに話を聞き、実際の労働を体験する…

「児童労働」と「フェアトレード」の問題を知るためにケニアに行き、日本に帰ってきて「バレンタ
イン一揆」という啓蒙活動を始めた3人の女の子を追ったドキュメンタリー

バレンタイン一揆
画像提供:映画「バレンタイン一揆」より

 

映画の前半はケニアでの体験記、後半は日本での活動記で構成されるこの映画。なんといっても面白いのは前半部分だ。映画は3人の女の子がケニアに降り立つところから始まる。NPOのワークショップに参加するくらいだから、いわゆる「意識の高い」若者たちで、現地のNPOの人の話にも熱心に耳を傾ける。そして若いから元気もある。車で10時間と説明される僻地のカカオ生産地の旅も難しいものにはならず、現地でも彼女たちは精力的に活動する。実際に児童労働を経験していたという15歳の少年の話を聞き、実際に彼がやっていたという仕事も体験する。

さらにこどもを働かせていたのをやめて学校に行かせるようにした家族を訪ね、彼らがチョコレートというものを食べたことがないと聞いて驚き、日本から持参した「ガーナチョコレート」を食べさせる。最後は学校に行き、熱心に勉強をし熱く夢を語る子どもたちと話す。この前半部分がいいのは、彼女たち3人が対象となっているケニアの人達と観客の間のフィルターになっているところだ。単にカメラが村を訪れ村人たちの生活を写しとるのではなく、カメラは彼女たちの背後へと後退し、私たちは供たちに年齢の近い3人の女の子たちの目を通してケニアの人達のことを見つめることができる。

だから、学校を尋ねた時にこっちゃんが「あなたの夢はなんですか?」と聞かれ言葉に詰まる場面で見ている私たちも「うっ」と言葉に詰まる。そしてケニアの子供たちと日本の子供たちを比較せずにはいられなくなる。今の豊かな日本の若者たちはいったい幸せなのだろうかと。

そのような前半部分があるので、後半こっちゃんを中心に彼女たちが「バレンタイン一揆」という児童労働の問題とフェアトレードについての知識を広めようという活動を始めると、素直にそれを応援できる。豊かさを享受している若者たちが、それが成り立っている背景に搾取が存在していることを知ること、それが彼女たちにとって一つの夢となるからだ。後半部分では彼女たちは対象であり、私たちはカメラを通して彼女たちの活動を眺める傍観者になってしまうので、感情的な部分では前半ほど面白みはないけれど、しかしほっこりとした気分になる。

というわけで、映画で描かれている内容については非常に面白いし、興味深いということができると思う。それに「フェアトレード」という言葉はそれなりの認知度があると思うが、その意味をちゃんと知っている人は意外と少ないと思うし、特に子どもたちはその言葉自体も知らないかもしれない。その意味でも、彼女たちに年齢の近い若い人たちや子どもたちにはぜひ観てほしい作品だし、教科書的なわかりやすい作りになっているので、取っ付き易くもある。

ただ、こういう問題提起的なドキュメンタリー映画を観ていつも悩ましく思うのが、この「問題」についての知識の差が映画を面白いと思えるかどうかを左右してしまうということだ。この映画の場合、前半部分からナレーションでそこで起こっていることや彼女たちが経験していることについてしっかりと説明をしている。これは「理解する」ためにはいいのだが、彼女たちにある種の感情移入をして映画の世界に入っていくためには邪魔になってしまう。わざわざ説明してもらわなくても映像や彼女たちの表情や現地の人達の言葉でかなりのことがわかるし、それに限定したほうが臨場感やリアリティが出て、説得力を持つのではないかと思うし、より「共感」を得やすくなるのではないかと思う。

しかしそれはジレンマだ。そもそも基本的な部分をわかってもらえていなければ言葉で説明しなければ画面で写っていることを理解してもらえないのだから、そうしてしまうと今度は「わからない」という人が出てきてしまうのだから。後半部分でこっちゃんは度々「うまく伝えられない」ということを感じる。ここで彼女はその問題についてより多くを知り、さらには現地に言ったことで感情的にも「共感」をしているわけだが、彼女が声をかける人たちは彼女が一生懸命伝えようとしている問題のその背景を理解していないために彼女がいくら一生懸命説明しようとしてもその話が理解できないわけだ。その意味でこの映画はそういう人達に理解してもらうための映画だということなのだろう。

私は映画というのは何かを伝えるための手段ではなく、観た人それぞれが映っているものから何かを感じ取るものだと思う。だからある程度、観客を突き放したようなモノのほうが「映画的だ」と感じる。その意味ではこの映画は映画的ではない。まあでもそう感じるのも自由だし、この映画を観て「問題」について知る人が増えるのはいいことだと思う。

だから映画としては「どうかな?」と思うけれど、多くの人に見て欲しいとも思うというなかなか珍しい感想を持った映画だった。

DATA
2012年,日本,64分
監督: 吉村瞳
撮影: 小林聡
音楽: 中村公輔
出演: ナナ・ブレンポン、志賀アリカ、梅田麻穂、白木朋子、藤田琴子

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