「荒れた」高校に臨時教師として赴任したヘンリー、太り気味の少女メレディスを始め、生徒の心を徐々に捉えていくが、ボケて入院する祖父を抱える彼の生活は孤独だった。そんなヘンリーはある夜、車内で売春婦らしい少女エリカを助け、自分の部屋で休ませるが…
様々な孤独を心に抱えた人々を描いたドラマ。言葉少なに人々を描く人間描写が素晴らしい。監督は『アメリカン・ヒストリーX』のトニー・ケイ。

 「荒れた」高校が舞台で、いわゆる不良少年や、モンスターペアレンツ、学級崩壊という現代の教育問題が次々と登場する。しかし、この映画が「教育」に関する映画化というとそうではない。エリカを含め、10代の若者たちを描いた作品ではあるが、彼らの「心」を描いたものであって、教育によってそれがどうなるとか、教育がこんな若者を生んでしまったとかそういう話ではない。

この映画は見ている間、登場する人たちの「心」の叫びに耳を澄まさざるをえない。もちろんまずは主人公のヘンリーだが、エリカや生徒の一人メレディス、ルーシー・リュー演じるカウンセラーのドクター・パーカーらの「叫び」も大きな意味を持つ。

若者と大人の違いは、若者はその「叫び」を言葉や行動として外にだすことが多いが、大人はそれは心に仕舞っておくということだ。ヘンリーの「叫び」はその評定や、時々挿入される心象風景から聞き取るしか無い。ドクター・パーカーや他の先生についてもそうだが、映画の後半でこのドクター・パーカーが「切れる」シーンがある。表出すべきではない「叫び」をつい表に出してしまうのだ。

これは大人としてはやってはいけないことだが、若者にとっては実は大人が自分に対して感情を吐露してくれるという貴重な瞬間なのかもしれない。それは、ヘンリーとエリカがずっと理解し合えない原因にもなっている。互いが互いの心に共鳴し、お互いが心の支え担っているのにどうしても理解し合えないのは、そのような立場の違いがあるからだ。それはヘンリーとメレディスの関係においても同じことが言える。

さっきこの映画は「教育」についての映画ではないと書いたが、別の見方をするとやはり「教育」についての映画なのかもしれない。それは、今までの(そしてこれからの)教育がそのような大人と若者の違いを生み出すものであるということに対する疑問だ。そのような教育を受けて育った大人が決して若者の心を理解することができないという事実、それを是としていいのかという疑問だ。

ヘンリーは若者たちから様々なことを学ぶ。それは大人になることで彼が失ってきた何かだ。

誰の言葉か忘れたが「大人というのは子供の想像の産物でしか無い」ということを聞いたことがある。大人は子供との違いを説明するために「大人像」をつくり上げる。それは決して自分自身を反映したものではなく、「子供ではないもの」像である。そして、子供はその「大人像」を抱えたまま大人になる。そんな大人には決してなれないのにである。

この映画が心に響くのは私達がみんな「大人になれない大人」であるからではないだろうか。大人になろうとしていろいろなものを失い、しかし決して大人にはなれない。そんな私達が抱えているのはおそらく「孤独」だ。そんな孤独な私達が求めている何かをこの映画に登場する人たちの「叫び」が教えてくれる、そんなふうに思えた。

DATA
2011年,アメリカ,97分
監督: トニー・ケイ
脚本: カール・ランド
撮影: トニー・ケイ
音楽: ザ・ニュートン・ブラザーズ
出演: エイドリアン・ブロディ、クリスティナ・ヘンドリックス、ジェームズ・カーン、ブライス・ダナー、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ルーシー・リュー

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