リュシアン 赤い小人

Le Nain Rouge
1998年,ベルギー=フランス,102分
監督:イヴァン・ル・モワーヌ
原作:ミシェル・トゥルニエ
脚本:イヴァン・ル・モワーヌ
撮影:ダニエル・イルセン
音楽:アレクセイ・シェリジン、ダニエル・プラント
出演:ジャン=イヴ・チュアル、アニタ・エクバーグ、ティナ・ゴージ、ミシェル・ペルロン、アルノ・シュヴリエ

法律事務所に勤めるリュシアンは身長が1m28cmしかないいわゆる小人、周囲の人々にバカにされている視線を感じつつも誠実に仕事をこないしている。その彼が担当した離婚問題で離婚を実現するための手紙の代筆をしていたが、その依頼主である伯爵夫人に手紙を気に入られて婦人の邸宅に呼ばれる。同じころリュシアンは旅回りのサーカスの少女イジスと知り合う…

ベルギーの監督イヴァン・ル・モワーヌの長編デビュー作。モノクロに粗い画面を使って意識的にクラッシクな雰囲気を作り出し時代設定も現在というよりは20世紀前半にしてある。地味ではあるけれど実力を感じさせる作品。

全体としては1930年代の映画を今作ろうとしているという感じがする。舞台から人物、小物、フィルムにいたるまでその時代の設定で完璧に作りこむ。そんな意気込みがこの映画からは感じられる。何も知らずに見たなら、昔の映画だと思ったままずっと映画を見てしまうかもしれない。その仕掛けの意図はよくわからないが、とりあえず出来上がった映像はなかなか面白い。どれだけ古典に親しんでいるかによって受け取り方は違うだろうけれど、映像の完成度は高く、あまり古典を見たことがない人ならば、古典の魅力を発見する助けになるかもしれないと思う。

物語としては心理劇というか、リュシアンという主人公に矛盾する人間の心理を表現させているという感じ。くよくよ悩んだり、ぐだぐだとくだを巻いたり、といった直接的な表現を使うのではなく、彼の行動によってその心理を推察させる。心理劇としてはよくあるというか古典的な手法ではあるが、主人公を小人に設定することで複雑さが生まれるとともに、観客の先入観を利用することで観客の意識を誘導するのを容易にしているということも言える。

だから、観客はリュシアンの心理の動きを的確に読み取ることができる。監督が衝撃を与えようと考えたところは衝撃的に、共感を得させようとしたところは共感を感じられるように、映画を見られる。もちろん個人差あると思うが、この監督は丁寧に丁寧にだれも映画に乗り遅れないように配慮している気がする。

そのために重要なのはなんといってもゆっくりとしたテンポ。ハリウッド映画のようにぱっと見てすぐわかる映画の場合テンポをあげて観客を引っ張っていくほうが観客を映画に引き込むことができるが、この映画のように観客に推察させて導いていく映画の場合、考える「間」を的確に配して観客が自発的に映画の中に入り込むようにするのがいい。

この映画でそれが最も感じられたシーンは、リュシアンが伯爵夫人の家に忍び込むシーンだ。これは伯爵夫人がいる家にリュシアンが忍び込んで酒を飲み、夫人の夫人のカツラをかぶり、化粧をするというシーンだが、ここでも物語を急速に展開させず、リュシアンの心理を酒とカツラと化粧という小道具を使って映像的に表現していく。そして猫を何度も何度もインサートすることで、考えるべき「間」を与える。そしていつ見つかってしまうのかという緊迫感もある。視線もほぼリュシアンの視線にカメラが置かれ、リュシアンに同一化してその場にとどまることができるように配慮されている。

だから、観客は迷うことなくリュシアンの立場に身をおき、苛立ちや安らぎや憎しみや愛情を感じることができる。ある意味では陳腐といえてしまうかもしれないが、非常に観客に優しく、全体の暗い雰囲気とは裏腹に決して暗澹たる気持ちになる映画ではない。

古典的な映像の作り方というのもこの映画の雰囲気にマッチして、まさに昔の映画を見たような観後感(読後感のようなもの)がある。1930年代の映画というのはもう増えることがなく、その良さを味わうには優れた映画を繰り返し見るしかないと考えるのが普通だが、この監督はそういう映画を自分で新たに作ってしまえばいいと考えたのかもしれない。古典映画の再生産とでも言えばいいのか、そのような古典映画を現代に作るということもひとつのジャンルとして面白いかもしれないとも感じた。

鳥のように – ラ・ドゥヴィニエール

La Deviniere
2000年,ベルギー,90分
監督:ブノワ・デルヴォー
撮影:ブノワ・デルヴォー
音楽:ブノワ・デ・クラーク

 いくつもの精神病院をたらいまわしにされ、どこでも受け入れてもらえなかった十代の少年少女たちのために作られた開放型の精神療養施設「ラ・ドゥヴィニエール」。それから20年後の療養所の様子を比較的軽度なジャン=クロードを中心に描いていく。
 監督はカメラマンとして『ロゼッタ』などに参加したブノワ・デルヴォー。初の長編作品となる。

 これは精神病院ではなくて療養所だけれど、精神病院を描いたようなドキュメンタリーは結構ある。フィクションも結構ある。それらと比べてこの映画に何か光るものがあるかといえば、あまりないといわざるをえない。全く解釈をせず、ただただ映し続けるだけという姿勢はいいのだけれど、そこから何かが浮かび上がってくるのかというと、それはなかなか難しい。映画の後半になってジャン=クロードが主人公のようになり始めると、映画は一種のメッセージのようなものを持ち始めるのだけれど、前半部分とのつながりは希薄である。最初からジャン=クロードが主人公然としていれば、彼を中心に映画を見ることができるのだけれど、前半にはただのひとりでしかなかった彼が急に主人公に成り上がってしまった印象があって、それが残念でならない。
 こういう映画はなんだかドキュメンタリーということに胡坐をかいたというか、ドキュメンタリーであることに価値を置きすぎている映画という気がする。ドキュメンタリーであっても映画なのだから、観客を楽しませたり、観客に伝わりやすくしたりする努力が必要なのに、この映画を見ていると、「わたしたちは現実を提示しているのだ」というある種の傲慢さが映画作りの根底にあるような気がしてしまう。
 この映画は時間について言及しないけれど、おそらく時系列どおりに構成されており、映画が主人公を発見していく過程と撮影者たちが主人公を発見していく過程は一致する。しかし、その過程にあまり必然性はなく、被写体との距離やたまたまおきたイベントによって左右される。だから映画の物語にまとまりがなく、観客の注意も散漫になってしまう。

 まあ、映画を見て、現実を見て、いろいろ考えさせようというのが意図であり、もちろん考えさせられることはあるわけですが、それだけでは映画としては並みの域を出ることはできないということです。