黒の切り札

1964年,日本,92分
監督:井上梅次
脚本:長谷川公之
撮影:渡辺徹
音楽:秋満義孝
出演:田宮二郎、宇津井健、藤由紀子、万里昌代

 同じ難波田という男に組をつぶされたやくざ者と父親を自殺に追いやられた社長の息子。この二人が難波田に復讐をしようと組んだのは難波田の経営するナイトクラブでサックスを吹く謎の男・根来。三人はある夜、極東信用金庫に盗みに入った…
 「黒」シリーズの10作目はシリーズでともに主役を張る田宮二郎と宇津井健が共演。いつものヒロイン藤由紀子も出演し、シリーズとしても「切り札」を切ったという感じ。

 田宮二郎はかっこよく、「黒」シリーズは面白い。それがどのように面白いのか考えてみる。たとえば「火曜サスペンス」とどのあたりが違うのかを考える。
 一番違うのは画面の作り方だろう。テレビで見られることを主眼としたテレビドラマとスクリーンでかけられることを前提とした映画の違い。もちろんシネマスコープサイズというのもあるけれど、ものの配置の仕方が違う。そして、カメラの動き方が違う。多くのテレビドラマはカメラ動きすぎる。ズームアップしたり、走っている人を追ってみたり、それは緊迫感を高めるひとつの技術ではあるけれど、カメラが動きすぎることによって失われるものもある。
 テレビドラマの中にも面白いものはあるので一概には言えないのですが、傾向としてはそういう感じだということです。結局のところ、このあたりのシリーズものの娯楽映画がテレビドラマの源流のひとつとなっているので、根本的な違いはそれほどないはず。もっとも大きな違いといえば、スポンサーからお金をもらってただで放映するのか、それともお客さんからお金を取って上映するのかという違いでしょう。
 お金をとってお客さんを呼ぶ以上、お客さんの興味を引くような映画でなければならない。その意味でこの映画はヒットシリーズもので、二人のスターが出演しているから、お客さんの興味を引くことは確か。しかし、内容はといえば… 今のテレビドラマと特に違いはないくらいの質でしょう。何百本もの映画が作られていたこのころ、映画の質はピンキリということですね。そんな中では中くらいの出来だと思います。
 今日は話がばらばらになってしまいました。結論としては「火曜サスペンス」と根本的には違わないけれど、田宮二郎とシネスコと映画の質が違うということです。後はメディアが違うということも結構影響があるでしょう。
 そして田宮二郎はやはりいいということ。

黒の報告書

1963年,日本,94分
監督:増村保造
原作:佐賀潜
脚本:石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:宇津井健、叶順子、神山繁、殿山泰司、小沢栄太郎

 社長が自宅で殺されるという殺人事件。この担当になった城戸検事は凶器も判明し、指紋も出て、簡単な事件だと考えた。思い通り簡単に容疑者を捕まえ、尋問を開始するがなかなか自白をしない。そしてそこに現れたのは腕利きとして知られる弁護士山室だった。
 「黒」シリーズ、宇津井健シリーズの最初の作品。増村得意の法廷もので、重厚なドラマ。

 被疑者がいて、いかにも悪徳っぽい弁護士がいてという設定で、どう考えても城戸検事に肩入れせざるを得ない設定の作り方なので、このドラマはとてもいい。映画に対してはなれた視線で見ると、こういうドラマチックなドラマは醒めてしまうし、特に斬新なものがあるわけでもないので耐えがたくなってしまうが、映画の中に簡単に入り込めると、眉間にしわを寄せながら次の展開へと心はあせる。 ということなので、映画の冷静な分析など望むべくもなく、叶順子はきれいだなとか、宇津井健は眉毛つながって見えるなとか、そんな感想しかなく、これが最初からシリーズ化される予定だったとしたならば、「これからどうなるんだ城戸検事」と思わせる終わり方は見事だなということぐらいしか言いようがない。
 ひとつ思ったのは、殿山泰司のすごさ。最近「三文役者」という映画をやっていて、殿山泰司を竹中直人が演じていました。すっかり見逃してしまいましたが、もともと殿山泰司は知っていたもののそれほど思い入れがなかったというのもあります。しかし、この作品の殿山泰司はすごい。映画の中でひとり浮くぐらい味がある。水をいっぱい飲むだけで、「何かある」と思わせる演技をしています。これが名脇役といわれる所以かとはじめて実感したわけです。ほかに増村に出ていたので思い出すのは、「清作の妻」くらいでしょうか。とにかく、ようやく殿山泰司再発見でした。

黒の試作車

1962年,日本,95分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:舟橋和郎、石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:田宮二郎、高松英郎、叶順子、船越英二、菅井一郎

 タイガー自動車は開発中の新車のテストを行っていたが、そのテストカーが事故を起こし、その事故の事実が産業スパイによって新聞社に売られてしまった。それをライバルヤマト自動車の馬渡の仕業だと考えたタイガー自動車の小野田は部下の朝比奈を片腕として激しいスパイ合戦をはじめる決意をする。
 ビジネスの世界を舞台としたハードボイルドな物語。田宮二郎を主役として3年間で11作が作られたサスペンス「黒」シリーズの第1作。

 増村のサスペンス物は面白い。やはり若尾文子とものとか渥美マリの「軟体動物シリーズ」などに注目が集まりがちだが、このサスペンスというジャンルは増村は得意らしい。特にスパイものは。「陸軍中野学校」は何といってもヒットシリーズだし、この「黒」シリーズもそう。ほかには川口浩主演の「闇を横切れ」もかなり面白かった。サスペンスというと謎解きの面白さでプロットが面白さの大部分を占めると考えられがちだけれど、私は必ずしもそうではないと思う。文字で読むのとは違う映像ならではの謎解きというものが存在し、犯人を明かすも殺すも監督の演出力次第という感じがする。この作品はちょっと犯人がわかりやすかったけれど、それでも確信をもてるまではいかない隠しかたはされていた。
 増村のサスペンスが面白いのはそれだけではなく、結局サスペンスに終始しないというところ。「恋にいのちを」も一種のサスペンスだったけれど、人情とか恋愛とかそういう人間的な要素が大きな部分を占める。この作品でも結局のところスパイ合戦よりも主人公の田宮二郎のこころの動きというものが本当の物語の核であるような気がする。時代性を考えれば高度成長期を突き進む日本の企業戦士への警鐘なのかも知れない。
 またサスペンスでは増村のマッチョさが浮き立たされてそれが面白いというのもある。基本的に男の正解を描く増村のサスペンスでは登場する男達がみんな(精神的に)マッチョでそれは増村自身のキャラクターを反映しているような気がする。そのマッチョさを現代にも通じるものとして肯定することは到底できないけれど、一つのパターンとして考えるのはとても楽しい。女性をあんなに魅力的に描ける監督がどうしてこんなマッチョな面を合わせ持つことができるのか?ヨーロッパ的な騎士道精神かな? イタリア留学してたくらいだから、イタリア的なのかもしれません。
 今日のテーマは増村とサスペンスとマチスモとイタリアということでした(後付け)。

黒の超特急

1964年,日本,94分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:増村保造、白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、藤由紀子、船越英二、加東大介

 岡山で細々と不動産業を営む桔梗のところに東京の観光開発会社の社長と名乗る男が儲け話を持ってきた。その男・中江によれば、桔梗の住む町に大きな工場が誘致されるらしい。大金をつかみたい桔梗はその男の話に乗り、地主達を説得するのだが…
 増村としては三作目の「黒」シリーズだが、シリーズとしては11作目(なんと2年ちょっとで)にして最後の作品。金と正義とが複雑に絡み合う社会派サスペンスで、なんといっても田宮二郎の熱演が光る。

 冒頭(タイトルの前)、激しいフレーミングで驚かされる。すごくローアングルだったり、腰の高さだけを切り取ったりという感じ。タイトルが出た後は少々落ち着くので安心。増村らしい構図は健在だが、それほど目に付かず、それよりも(黄金期の)ハリウッド映画を思わせるディープ・フォーカスのパースペクティヴが使われているのが印象的だった。それとローアングルが多い。この二つはおそらくサスペンスドラマとしての劇的効果を狙ってのことだと思う。
 しかし、映画としてはサスペンスというよりはメロドラマという感じで、硬派なドラマさよりは増村らしいウェットな雰囲気を感じる。それは増村ファンとしてはうれしい限りだが、サスペンスとしてはどうなのか? あるいは、完全に増村的ではない(例えば、主人公のキャラクターが他の作品と比べると徹底されていない)ところはどうなのか? などと、増村的なるものといわゆるサスペンスなるものの間で揺れ動いてしまった。

 この「黒」シリーズは基本的にメロドラマ的な要素が強く、サスペンスといいながら、ヒロインとのウェットな関係がいつも物語のスパイスというか、サブプロットというか、主人公のキャラクター作りの一つとして使われている。最終作になっても、増村は自分が作り上げたそのスタイルを守り、シリーズに一貫性を持たせている。そして、この2年間で11作というモーレツな勢いで作られてシリーズは、時代のモーレツさを象徴しているものかも知れなず、シリーズの最後はまさに時代を象徴するものとしての“新幹線”がテーマとなっているのだ。
 60年代は田宮二郎の時代と私は(勝手に)主張するが、その60年代の前半の時代的なものをすべて盛り込んだシリーズがこの「黒」シリーズであったのだと思う。そこには60年代という時代が描きやすい単純な時代の空気を持っていたということも大きく、今となっては時代を象徴するようなシリーズなんてものはどうあがいても作れないだろう。だから私がこの「黒」シリーズを賞賛するのは、自分が生まれていない時代へのノスタルジーでしかないということも言える。
 でも、時代なんてそんなものだとも思うし、ノスタルジーだって悪い面ばかりじゃないんだよといいたい。ハリウッド映画の未来への幻想と、日本映画のノスタルジーと、まったく違うもののようで、行き着くところは夢の世界に浸れる時間という同じものなのかもしれないと、ずいぶん大規模なことを考えてみたりもした。