ゴースト・オブ・マーズ

John Carpentert’s Ghost of Mars
2001年,アメリカ,115分
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ラリー・サルキス、ジョン・カーペンター
撮影:ゲイリー・B・キップ
音楽:ジョン・カーペンター、アンスラックス
出演:アイス・キューブ、ナターシャ・ヘントリッジ、ジェイソン・ステーサム、クレア・デュヴァル、パム・グリア

 西暦2176年、火星。84パーセントまでに地球化が進んだ火星の都市に到着した列車。無人のように見えた列車には手錠をかけられた一人の生存者が。彼女は火星の警察の副隊長。いったい何があったのか。他の隊員たちはどこに消えてしまったのか。会議の席上、お偉方が並ぶ中、彼女はことの起こりから語り始めた…
 アメリカホラー界の奇才ジョン・カーペンターが火星を舞台に繰り広げるSFホラー・アクション。舞台を火星にしたところで、カーペンターはカーペンター。トリップ感さえ覚えてしまうほどの勢いで押しまくる。万人に受けるものではないけれど、とにかく痛快。

 いいですねこれは。渓谷についてからはとにかく殺し合いをしているだけなんだけれど、それが痛快。殺し合いが痛快というのはどうも語弊があるけれど、ジョン・カーペンターの殺し合いはあまりに痛快。それは一つはあまりに非現実的であるからであり、もう一つはとにかく徹底的だから。中途半端なヒューマニズムをひけらかしながら殺しを見せるより、こういう風に徹底的に殺す。躊躇なく殺す。とにかく殺したほうが害が少ない。害が少ないというのは娯楽として消化できるということで、「面白かったね」といって現実に戻ることができるというもの。
 同じように痛快な映画に『スターシップ・トゥルーパーズ』というのがあったけれど、これは相手が同じ宇宙人にしても形が昆虫で、だから殺すのに全く躊躇がなかったということ。コミュニケーションも全く取れないし。この映画は姿はほぼ人間なので、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりある意味ですごい。人間の姿の敵なのに、殺戮が痛快であるというのはかなりすごい。それでも、自傷行為によってあまりヒトに見えなくするということや、やはりコミュニケーションは全く取れないという点で人ではないということは言える。

 徹底的という点で言えば、徹底的に残酷で、徹底的にグロテスク。CGではなくて特殊メイクで傷なんかを作るのもジョン・カーペンターらしい味で、リアルさは損なわれるけれど、逆にグロテスクさは増すような気がする。
 でも、やっぱり一番感心するのは徹底的に冷たいところだろうね。物語のつくりからして、登場人物たちも観客たちも突き放すような作り方。途中で主役級のヒトがあっさり死んでしまったり(一人しか生き残ってないからどこかで死ぬのはわかっているんだけれど)、とにかく分けもなく殺す。
 結局のところすべての話は殺戮ということに行き着いてしまう。アクションがしょぼいとか、現実的な考察がまるでないとか、行動が理不尽とか、いろいろ文句のつけようはありますが、どれもこれも「殺戮」という話に行き着くということは、そこの部分でこの映画は評価すべきということで、その部分ではこの映画は本当に素晴らしい。だからこの映画は素晴らしい映画だと思う。
 最後の最後の1シーンも、すごくいい。あれがあるとないとでは大違い。さらに観客を突き放すというか、わだかまりを残さないというか、ともかくこれも徹底的なものの一つ。
 その最後も含めて、なんとなくニヤニヤしながら見てしまう。ホラー映画で、結構怖いのに、全体的に言うとニヤニヤという感じ。もちろん生理的に受け付けない人や、怒って席を立ってしまう人もいると思いますが、映画に没入すれば一種のトリップ感を得られる。

 今、思い出しましたが、音楽もカーペンター自身が担当していて、相棒はスラッシュ・メタルの大御所アンスラックス。スラッシュ・メタルとかハード・コアなんて普段は全く聞かないけれど、この映画には非常にフィットしていていい。とてもいい。映画を盛り上げるというよりは、映像と音楽で一つの形になっていて、映画のリズムを作り、映像よりむしろ音楽が観客を操作している。そんな印象もありました。

遊星からの物体X

The Thing
1982年,アメリカ,109分
監督:ジョン・カーペンター
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr
脚本:ビル・ランカスター
撮影:ディーン・カンディ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート、ドナルド・モファット

 南極のアメリカベースに突然現れたノルウェー隊のヘリコプター。彼等は執拗に一匹の犬を追っていた。狂気に犯されたようなノルウェー隊の二人の隊員は二人とも死んでしまう。それを不審に思ったアメリカ隊の隊員がノルウェーの基地に行ってみると、そこは全滅し、人々の死体と、奇妙な生物の焼死体が残されていた…
 サイコな要素を取り込んで、「エイリアン」とともにこれ以降のSFエイリアン・ホラーの原型となった名作。ホラーの巨匠ジョン・カーペンターの出世作でもある。

 この作品はもちろんエイリアンもののホラー映画ではあるが、同時に犯人探しのサスペンスの要素も持っている。見た目からはエイリアンが寄生しているかどうかわからないために生まれるサスペンスがこの作品の面白みを大いに増す。この構造はもちろん『エイリアン』と同じである。『エイリアン』の公開は1979年でこの作品より3年前だか、『エイリアン』の脚本家はもちろんジョン・カーペンターの盟友ダン・オバノンであり、このアイデアが昔から彼らの作品の構想の中にあったことは想像に難くない。だから、ふたつの作品が似ているのはいたしかたないのだろう。そして、それが現在に至るまでエイリアンもののサスペンス・ホラーのひとつの雛形となったのだ。
 そのような作品としてこの作品は非常に完成度が高い。外界との通交がまったく絶たれるという設定、その中でどこから迫ってくるかわからないエイリアン、仲間に対する疑心暗鬼、エイリアンの気色の悪さ、それをとっても抜群の出来。
 もちろん、この閉鎖空間という設定はジョン・カーペンターのお得意の設定であり、閉じられた中に恐怖の源があり、そこから逃れようと奮闘するというのも彼がずっと繰り返してきた物語展開である。

 しかし、その恐怖の源とはいったい何なのだろうか。果たしてそれは文字通りエイリアンなのか。ジョン・カーペンターがこのような恐怖を繰り返し描いていることからもわかるように、これは必ずしもエイリアンである必要はない。気の狂った殺人鬼でも、若者のギャング団でもなんでもいいが、とにかくそれはわけがわからないが“私”に襲い掛かってくるものでなければならないということだ。それらの映画とこの映画が違うのは、『ハロウィン』のブギーマンはそのものが恐怖の対象であるのに対して、この作品では人間がそのように恐怖の対象になるのは何かに取り憑かれたからだということだ。人間が何かに取りつかれることでわけのわからない恐怖の対象になる。それは非常に示唆的なことではないか。彼らは何かに取り付かれ、他の人間を食い物にし始めるのだ。
 それは別にエイリアンであろうと、狂気であろうと、欲望であろうと、何も変わらないのだ。つまりここでのエイリアンというのは人間か取り憑かれるなにものかの隠喩なのである。
 この物語の主人公であるはずのマクレディも「実はエイリアンなんじゃないか」と思わせる瞬間が映画の中に何度もあるのは、彼もまた何かに取り憑かれているからだ。彼はもちろんエイリアンを抹殺し、基地の外に出ないように奮闘してはいるけれど、果たして本当にそうだろうか。人間側が一枚岩ではないようにエイリアンも一枚岩ではないとしたら、エイリアン同士の殺し合いもあってもおかしくはないのではないか。実はマクレディは他のエイリアンを抹殺し、自分が地球に進出しようとたくらんでいるエイリアンなのかも知れないではないか。
 そのように考えてみると、この映画のラストはある意味ではハッピーエンドのように見えるけれど、非常にもやもやしていやな感じも残す。ジョン・カーペンターはこの作品の続編の構想があった(今もある)らしいのだが、それがどうなるのかはまったく予想がつかない。
 この作品に描かれたエイリアンは、われわれを果てしない不安に陥れる。