パリの確率

Peut – etre
1999年,フランス,109分
監督:セドリック・クラピッシュ
脚本:サンチャゴ・アミゴレーナ、アレクシス・ガーモ、セドリック・クラピッシュ
撮影:フィリップ・ルソード
音楽:ロイッチ・デューリー
出演:ロマン・デュリス、ジャン=ポール・ベルモンド、ジュラルディン・ペラス

 1999年の大晦日、アーサーは友人のマチューとともにSF仮装パーティーに出かける。アーサーの恋人リューシーも友達2人とそのパーティーへ。リューシーはその夜子供を作ると決めていた。リューシーの計画どおりトイレとしけこんだ2人だったが、アーサーは子供を作ることに躊躇する。なんとなく気まずいムードの中、アーサーはトイレの天井に別の部屋への入り口があることを発見する。そして建物の外へと出てみると、そこは砂に覆われた見たこともない世界だった。
 『猫が行方不明』のセドリック・クラピッシュ監督が『ガッジョ・ディーロ』のロマン・デュリス主演で撮ったおかしなSF作品。全体に漂うばかばかしさがたまらなくいい。

 このばかばかしさはすごく好き。ちょっと考えると「そんなわけね-よ」ということをさらりとやってしまう。タイム・パラドックスとかいうことを深く考えたりもしない。面白ければいいんだという分かりやすい姿勢が素晴らしい。
 映像も、特に斬新ということもないんだけれど、さらりといい映像という感じ。やはり砂漠というのは絵になるもので、何もない砂漠の上に人がいるというだけで映像としては十分成立する。砂漠の場面で一番印象に残っているのはけんかをしたアコとアーサーが座り込む場面。画面の端と端に座り、右端のアーサーがアコの方へと歩いていくのをカメラが追う。ただそれだけ。だけどいい。
 それに本筋とは関係ない部分もなかなか面白い。女三人組で一番きれい(だと思う)ジュリエット(だったと思う)が最後一人寂しく帰る場面をしっかり撮ってみたりするのも、「わびさび」ではないけれど、気が利いているし、ユリース(ひ孫)が結局どうなったのかまったく触れないところもいい。(何がいいのかと聞かれると困りますが、こういう投げっぱなしのエピソードがあるという未完成っぽさが好き)
 などなど、取るに足らないことばかりですが、その積み重ねでいい映画になったという作品だということ。

 まあ、この映画は基本的にはSFなわけで、普通に考えればありえない話しなわけですが、それがありえそうに描けてしまうのがクラピッシュらしさにつながるのかもしれません。未来を描く場合、普通は(ハリウッドはと言い換えてもいい)いまよりもテクノロジー的に進んだ社会を描く。それがわれわれにいい社会なのか悪い社会なのかは別にして、とにかくテクノロジー的には「進歩」した社会を描く。それはまさしく近代的な発展的歴史観というか、社会というのは日々進歩していくのだという素朴な考えの表れであるような気がする。SFというのは映画に限らず小説でもいまより科学技術が進んでどんどんすごいことができるようになったらどうなるんだろうという、夢の世界を描くものだった。しかし、果たして科学技術がどんどん進んでいくことが本当にわれわれ(人類のとは言わない)のためになるのかどうかということも、原子力の例を上げるまでもなく疑問に付されてきているし、その中で技術の発展が不幸を呼ぶようなものも数々作られているわけだけれど、この映画のようにある意味で退歩した未来を描くというのはあまりない。
 そんな意味でもこの映画は面白い。基本的には退歩しているけれど、しかしその未来に対して最後にはアーサーが期待というか希望を持つというのも示唆的なのかもしれない。
 クラピッシュの作品をいろいろ見て、この人の現代に対する感覚というのがすごくよくわかる気がした。それは心地よいというわけではないのだけれど、私がいまという時代に対して感じる感覚と何か近しいものを感じる。
 クラピッシュは映画というものに対して何か行き詰まりのようなものを感じていて、しかしそれを斬新さで突き破ろうとするのではなく、もっと自分自身の身近なところに引き戻すことで新しい生々しさを生み出そうとしているような気がする。未来の描き方も『マトリックス』のような圧倒的な世界ではなくて、身の丈にあった自分に関わるミクロの未来だけを描く。
 それはとてもとても大切なことなんじゃないかと思う。