ワイルド・アット・ハート

Wild at Heart
1990年,アメリカ,124分
監督:デヴィッド・リンチ
原作:バリー・ギフォード
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:フレデリック・エルムズ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、イザベラ・ロッセリーニ、ハリー・ディーン・スタントン

  あるパーティー会場で、ナイフで脅されたセイラーは素手でその相手を殺してしまう。故殺とされてセイラーは矯正院に入れられる。約1年後、矯正院を出たセルラーを恋人のルーラが迎える。二人は車で旅に出るが、ルーラの母親がそれを阻止しようと追っ手を送り込んだ…
 デヴィッド・リンチの名を不動のものとした、これぞまさに「リンチ・ワールド」という作品。執拗に繰り返されるマッチのクローズアップなど、映画に奇妙なバランスを持ち込んだ。登場人物たちもどこか普通ではない。理解しようとしてはいけない。感じようとすれば最後に何かが見えてくる。

 一つ一つのシーンの意味なんかを考え出すと、わけがわからなくなりますが、全体的な印象として、この映画は子供の映画だということ。登場人物たちはすべて子供で、それは自分の欲求をストレートに追求しているということ。そして、世界のとらえ方も現実を理性的に捕らえるのではなく、感性で自分の感じる世界をそのまま受け入れるというとらえ方。そのように考えると映画を一つの構造体としてみることが(私には)できる。
 口紅で顔を真っ赤に塗りたくる母親も、最初は狂気のように見えるけれど、子供らしいいたずらというか、幼児的な行動。これに限らず母親の行動はまさに子供じみた行動で、わがまま放題、周りを振り回して自分の欲求を果たそうとする。 これはこじつけかもしれないけれど、この映画には子供は一人も出てこないけれど、逆に老人ばかりが働くホテルが出てきたりする。「何年と何ヶ月と何日」という妙に正確なキャプションも、妙に正確性を求める子供的発想と考えられなくもない。
 なので、最後のあまりにくさいというか、そんなんでいいのか、と思ってしまいそうなラストにも納得。セックスとバイオレンスを描いた映画ならあんな終わり方はしないはずだが、これは子供映画なので、絵に描いたようなハッピーエンドが必要だったのだ。

 という風に私は考えたわけですが、これもあくまでこういうとらえ方もあるということです。おそらく、セックスとバイオレンスをパロディ化した一種のコメディ映画だという見方もできるだろうし、生と死と狂気を見つめた精神的な映画と見ることもできるだろう。どの見方も、この映画の一面をとらえている一方で、一面を見逃している。私は自分のとらえ方に固執しながら、それによってすべての理不尽が許されてしまい、その結果この映画が持つ細部へのこだわりがあまり意味を持たなくなってしまうということを感じている。序盤の徹底的に原色にこだわった画面作りなどを解釈することはできない。
 ということは、そのような自分なりの解釈を抱えて、もう一度この映画を見ることができるということでもある。あらゆる解釈を可能にすることで、繰り返し見せるような映画。それがデヴィッド・リンチの映画であると思う。

マルホランド・ドライブ

Mulholland Drive
2001年,アメリカ,146分
監督:デヴィッド・リンチ
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:ピーター・デミング
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ナオミ・ワッツ、ローラ・ハリング、ジャスティン・セロー、アン・ミラー

 マルホランド・ドライブを車で走っている途中、殺されそうになる女。しかし、そこに車が突っ込んできて、激突。女は壊れた車から抜け出し、歩いて街へと降りてゆく。翌朝、たまたま見つけた家に入り込む。その家はちょうど留守で、その間に滞在することになっていた女優の卵ベティがその家にやってくる。
 『ストレイト・ストーリー』から再びリンチらしい世界に復帰。もともとTVシリーズとして企画されたものらしく、『ツイン・ピークス』を髣髴とさせる。見れば見るほどわからなくなるのがリンチ・ワールドと思わせる作品。

 デヴィッド・リンチの物語を理解しようとする努力は常に徒労に終わる。彼のすごさは理解できないものを理解できないものとして提示してしまうことだ。普通はいくら難解なものを撮っても、どうにかして理解できるようにするものだ。デヴィッド・リンチはそれすら拒否している。それは監督本人すら理解できない世界であると思わせる。それは「意味」という論理的なものではなく、感覚的なもので組み立てられた世界。漠然としてイメージを漠然としたまま映像として提示する。そこに浮かび上がってくるイメージはいったいどんなものなのか、それがわからないまま世界を作り始めてしまっている印象。
 だから、その世界を解釈することは「意味」のレベルで言えばまったく無意味なことである。しかし、言葉で語ることには常に「意味」がつきまとう。だから私のこの文章にも何らかの「意味」が付加されてしまうことは仕方がない。それならば、この物語を多少意味的に解釈して見ようなどと思う。この物語を解釈する上で私にとって(あくまで私にとって)確実であると思えるのは、この二つの世界がいわばコインの裏表であるということ。それはつまり、同時に平行して存在しているけれど、決して互いに向き合うことができない世界。背中合わせに金属という希薄なつながりを持っているに過ぎない二つの世界。もちろんそれをつなぐのは「箱」と「リタ/カミーラ」である。そこまでは確実だと思うのだけれど、それ以上は何もいえない。おそらく見るたびにそのそれぞれに付加したくなる「意味」は変わってくるだろう。
 デヴィッド・リンチの映画の難解さは「それを理解しよう」という欲求を起こさせる。しかし、映画を見ている間われわれをとらえるのは実際はその音響や映像による感情のコントロールである。見ている側の喜怒哀楽を巧妙にコントロールすることで映画に観客を引き込んでいく。もっともそれがわかりやすく出たのは、ほとんど最後のほうでダイアンがなんだかわからないものに攻め立てられるところの恐怖感。なぜ起こるのか、他とどんなつながりがあるのか、恐怖のもとは何なのか、はまったくわからないにもかかわらず、そのシーンがあおる恐怖感はものすごい。そのように感情を揺さぶられ、圧倒され、映画館を出たときに残るのは映画を見ている間ずっとくすぶっていた「理解しよう」という欲求。それに片をつけるまでは映画を離れることはできない。そしてその「意味」をとらえようとすればするほど、細部を整合させることができないことに気づく。ひとつの物語で解釈しようとするとそれぞれの細部に矛盾が生じる。リンチの物語とはそういうものだ。そしてその細部こそリンチ的な不可思議な魅力が存在しているところなのだから、話はさらに難しい。その魅力的な細部を物語と矛盾するということで切り捨ててしまうことは私にはできない。
 だから、ある程度落ち着ける意味を見つけ、他のところは「リンチだから」という常套句で片付けて、その欲求を棚上げにする。すべてをひとつの「意味」に押し込めて、ひとつの物語をでっち上げることはリンチが大事にしている細部をないがしろにしてしまうことになるのだから、それはせずに、見るたびに異なる味を楽しみにしていたい。