キカ

Kika
1993年,スペイン,115分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アルフレッド・メイヨ
音楽:ペレス・プラド
出演:ベロニカ・フォルケ、ピーター・コヨーテ、ビクトリア・アブリル、アレックス・カサノバス、ロッシ・デ・パルマ

 メイクアップアーティストのキカは死化粧の話をきっかけに、メイク教室の生徒に恋人のラモンとの出会いのいきさつを話し始める。そのラモンは3年前に母親を自殺で亡くしていた。キカはラモンの継父のニコラスと知り合い、家に呼ばれていってみると、そこに死んだラモスが横たわっていたのだ。しかしキカが死化粧をはじめるとラモスは生き返ったのだった。
 奇怪な登場人物とめくるめくプロットとゴルティエの鮮やかな衣装でかなりキッチュな印象の映画だが、しっかりと作りこまれていてしっかりと仕上がっている。

 このわけのわからなさのオンパレードはなんなのか? わけがわからないといっても混乱させるようなわからなさではなく、「?」を浮かべながらなぜか笑ってしまうようなわけの和からなさ。だからとても心地よい。果たしてどのくらいの人がこの心地よさを感じるのだろう? このわけのわからなさはアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられることが多い。あるいはキッチュというひとことで。ゴルティエの衣装もそのわからなさとイメージの両方に手を貸している。しかし、必ずしもアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられる問題ではないのかもしれない。ただ単純化されていない映画、説明をしない映画。ただそれだけかもしれない。映画というのは分かりやすくするために物事を単純化して、それに説明を加える。誰かが「複雑なものを単純に言うのが芸術だ」といったけれど、映画もひとつの芸術として複雑なものを単純に語る。それはわかりやすくという意味で単純に。しかしアルモドバルの単純化は「分かりやすさ」に主眼を置かない。「おもしろさ」に主眼を置き、複雑な物事を面白くするために単純化する。だからわかりやすさという点ではちっとも単純化されていない。むしろ、分かりやすいために必要なものを省いてしまうために分かりにくくなってしまう。だから理解しようとするとちっともわけがわからない。この映画も物語だけを追うんだったら、多分15分くらいで終わってしまうだろう。
 だから、全く物語とは無関係な面白い場面がたくさんある。キカがフアナをメイクするその2人の関係とか、警察とか、アンドレアの番組の内容とかいろいろ。そのそれぞれがプロットにどう関わってくるのかなんてことは気にせずに、あるいはその無関係さに気付きながら見れば、それはまさに子供の心で見れば面白さが詰まっている。警察もポール・バッソのところは相当面白いですね。普通の映画とは全く違う描き方です。キカの反応とか、かなり不思議。
 あと少し気になったのは「十字」。所々に出てくる十字の形状はなんなのか、ラモンの寝室にはキリストをモチーフにしたコラージュが飾ってあるし、全く敬虔とは言いがたいこの映画に顕れるこの神の像は何を意味しているのか? 私はキリスト教徒ではないので、こういうものを描こうとするときにどう神を意識するのかということは想像も出来ませんが、アルモドバルになって想像してみるに、このような映画を作ることが「神」とどのように関わるのかを考えることが彼には必要なのだろうということ。それは見る側に対して「神」に関するメッセージを送るということではなくて、自分にとっての意味付けのようなものを考えるためなのだろうと想像します。あくまで想像ですが…

オール・アバウト・マイ・マザー

Todo sobre mi Madore
1998年,スペイン,101分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アフォンソ・ベアト
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス、アントニア・サン・ファン、マリア・パレデス、ペネロペ・クルス

 マドリードで最愛の息子エステバンと2人で暮らすマヌエルは息子の17歳の誕生日に、芝居を見に行く。エステバンは大好きな女優ウマ・ロッホのサインを貰おうと土砂降りの中楽屋口で待っていた。そんな息子に、秘密にしていた父親の秘密を話そうとしたとき、楽屋口からウマが出てきて、タクシーに乗る、そのタクシーを追ったエステバンの後ろから一台の車が…
 カルト映画の巨匠として活躍してきたアルモドバルがついに放ったメガヒット。決して商業主義に走ったわけではなく、一皮向けたアルモドバルの映画がそこにはある。基本的には感動物語という感じだが、それだけではとどまらない深みをもった映画。

 この映画の切り口はたくさんありそうだ、一番よく言われるのは「女性」ということ。もちろんアルモドバルは映画の最後ですべての女性たちに献辞を捧げたのだから、これが「女性」の映画であることは確かである。しかしそれは必ず「女性」(カッコつきの女性)でなくてはならない、あるいは「本物の女性」でなくてはならない。アグラーダが舞台の上で言った「本物の女性」。そんな「本物の女性」のための映画なのだ。私がその「本物の女性」のイメージにぴたりとくるのは、この映画の中のマリサ・パレデス、そして献辞が捧げられていたひとりであるジーナ・ローランズ。
 おっと、あまり書くつもりじゃなかった「女性」の話にいってしまいましたが、要は同性愛者だとか何だとかそんな意識は捨てちまえということです(飛躍しすぎ)。その同性愛という部分(それはあからさまにはでてこないのだけれど、この映画の登場人物たちはみんながみんな少なからぬ同性愛的セクシャリティを抱えている)が非常に自然に映画の中に取り込まれているのもすごいところです。アルモドバル自身、ホモセクシュアルだという話ですが、だから描けるということはいえないわけで、同性愛に関する何らかのメッセージをあからさまにこめようとすると監督たち(ホモでもヘテロでも)とは明らかに違う力があります。
 さて、この映画は物語だけでなく、映像的にもかなりいいですね。音楽もいいし。映像的に言うと、接写が多い。クロースアップというよりは接写。これはかなり大画面を想定した設定だと思いますが、不思議なものをクロースアップしてみたりする。よくわからないものとかね。あとは構図ですね。特に人の配置が面白い、立っている人と寝ている人とか、立っている人と座っている人といった対比的な配置の仕方をしたり、鏡を使ったりすることで、構図に立体感が出というか、縦横斜めにいろいろな流れが出来る。たとえば、ウマがマヌエルの部屋にやってきた場面で、マヌエルとロサがソファーにいて、ロサがねっころがっている。そうすると、ロサの上には必然的に空白の空間が出来てくるわけで、その人と空白のバランスがとてもいいのですよ。そう、そういうこと。

バチ当たり修道院の最期

Entre Tinieblass
1983年,スペイン,100分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アンヘル・ルイス=フェルナンデス
音楽:カム・エスパーニャ
出演:クリスチーナ・サンチェス・パスカル、フリエタ・セラーノ、カルメン・サウラ、マリサ・パレデス

 麻薬で恋人を死なせてしまった歌手ヨランダは、以前もらった名詞を思い出して、それを頼りに「駆け込み寺」を訪ねてみる。しかし行ってみるとそこの修道院は財政難で閉鎖寸前、修道尼たちもわけのわからぬ人ばかり。
 5人のハチャメチャな尼僧たちの生活を淡々と映すアルモドバル監督のキッチュななコメディ。アルモドバル監督はこれが二作目だが、この作品を機に国際的評価を高めたといえる。確かにそれぞれの尼僧の個性がよくできていて、くだらなくもあり、しかし下品ではなく、不思議にバランスの取れた映画だった。 

 修道院にトラがいて、尼長はヤク中で、尼僧の一人は隠れて官能小説を書いていて、しかもベストセラー作家で、ホテルのような部屋があって、などなどと本当にハチャメチャな設定だが、これが必ずしも教会や修道院に対する皮肉ではなく(と信じたい)、純粋に笑いの要素として扱えているところがすごい。
 この映画から思い出されるのはやはり「天使にラブソングを」か。こちらも同じような設定のコメディだが、どちらかというと主役のウーピー・ゴールドバーグのキャラばかりが立っていて、周りの修道女たちがいまいちパンチに欠けるという感じがする。それと比べると、この映画は主人公のヨランダよりむしろ回りの修道女たちが笑いの中心で、それぞれが強烈なキャラクターを持っている。この辺がこの映画の不思議な魅力の秘密だろうか?