インポッシブル

インポッシブル

 2004年のクリスマス、日本に暮らすマリアとヘンリーと3人の息子たちは一家はバケーションを過ごそうとタイのリゾートを訪れる。クリスマスの翌日ホテルのプールで遊んでいた一家を突然巨大な津波が襲い家族は離れ離れに、マリアは長男のルーカスを見つけ何とか二人で津波から抜け出そうとするが、マリアは濁流の中で大怪我を負ってしまう…
実際にスマトラ島沖地震で津波の遭遇したスペイン人一家の体験を『永遠のこどもたち』のJ・A・バヨナ監督が映画化。そのリアルな津波の描写は本当に恐ろしく、津波の記憶が生々しい人々には耐えられないものかもしれない。しかし映画としては素晴らしい出来かと。

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ANA+OTTO 【アナとオットー】

Los Amantes del Circulo Polar
1998年,スペイン,112分
監督:フリオ・メデム
脚本:フリオ・メデム、エンリケ・ロペス・ラビニュ
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ナイワ・ニムリ、フェレ・マルティネス、サラ・バリアンテ

 8歳の少年オットーは飛んでいってしまったサッカーボールを追っていって、一人の少女アナに出会う。ある日オットーが授業を抜け出してトイレから飛ばした紙飛行機がきっかけで、オットーの離婚した父とアナの母が仲良くなり、毎日2人はオットーの父の車で帰宅することになった…
 「偶然」と「運命」が動かすアナとオットーの2人のおとぎ話。女性には非常に受けると思います。

 物語を語る際に視点をどこに置くかというのは大きな問題で、多くの映画は観客に<神>の視点を与えます。あちらこちらに遍在し、時には人の心理までも見えてしまう。そのような存在。しかしたまに1人の視点で語られることもあります。これは主にサスペンスなどの謎解きものに多い。「メメント」なんかがいい例だと思います。この映画はその1人の視点を2つ組み合わせたもの。オットーの視点から語られた後、同じ時間がアナの視点から語られるというパターン。
 展開を面白くするためには<神>の視点の方が有効だと思うんですが、2人の関係性に焦点を絞るなら、こういう方法もありかなという気がします。この方法をとると、映画全体が完全に2人の世界となってしまい、ほかの人との関係性が薄まってしまう。結構フォーカスされているオットーと母親の関係やアナの母親のオットーに対する心理などはあまり浮き出てこない。このあたりは<神>の視点に慣らされてしまっているわれわれには何か消化不良な感じもしてしまいます。
 今日は視点という問題に絞ってきたのでさらに行きます。
 それにしても映画はこれまであまりに<神>の視点に頼りすぎてきた。「メメント」がヒットしたのはそのすべてが見えてしまう映画とは違うものであるからだと思います。小説の世界では何世紀も前から「視点」という問題が語られ、様々な視点が試みられてきましたが、映画ではそのような試みはあまりやれられ来ていない気がします。その大きな要因は映画が短いということと観客が基本的の傍観者であるということが考えられます。小説というのは自分のスピードで1人でその世界に没頭することができるので、一人称で語られる主人公にどうかすることが非常に容易ですが、映画は映画が持つスピードにあわせて、しかもたくさんの人とスクリーンを眺める。これでは自然と傍観者等スタンスを取ってしまう。
「メメント」が成功したのはあらかじめ観客の注意を喚起し、映画に対するスタンスを変えてしまったからでしょう。何の予備知識もなくあの映画を見たら結構戸惑ったのではないかと思います。そんな「メメント」でもまったく物語が不十分と感じられるのはその短さ。主人公とって物語が終わっていないのに、映画が終わってしまうのは、主人公と同一化している観客にとっては尻切れトンボ以外の何ものでもないでしょう。
 違う映画の話になってしまったのでこの辺で話を戻して、この映画の場合は物語はきちんと完結しているのでいいのです。でも2人を主人公にすると1人の視点より入り込むのは難しくなる。結局傍観者という立場で見ざるを得なくなると思います。そうなるとこれはただ単に不自由な<神>の視点となってしまう恐れもあり、実際なってしまっているかもしれない。
 それでもラストあたりがうまく作られていて多少救われたと思います。

キカ

Kika
1993年,スペイン,115分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アルフレッド・メイヨ
音楽:ペレス・プラド
出演:ベロニカ・フォルケ、ピーター・コヨーテ、ビクトリア・アブリル、アレックス・カサノバス、ロッシ・デ・パルマ

 メイクアップアーティストのキカは死化粧の話をきっかけに、メイク教室の生徒に恋人のラモンとの出会いのいきさつを話し始める。そのラモンは3年前に母親を自殺で亡くしていた。キカはラモンの継父のニコラスと知り合い、家に呼ばれていってみると、そこに死んだラモスが横たわっていたのだ。しかしキカが死化粧をはじめるとラモスは生き返ったのだった。
 奇怪な登場人物とめくるめくプロットとゴルティエの鮮やかな衣装でかなりキッチュな印象の映画だが、しっかりと作りこまれていてしっかりと仕上がっている。

 このわけのわからなさのオンパレードはなんなのか? わけがわからないといっても混乱させるようなわからなさではなく、「?」を浮かべながらなぜか笑ってしまうようなわけの和からなさ。だからとても心地よい。果たしてどのくらいの人がこの心地よさを感じるのだろう? このわけのわからなさはアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられることが多い。あるいはキッチュというひとことで。ゴルティエの衣装もそのわからなさとイメージの両方に手を貸している。しかし、必ずしもアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられる問題ではないのかもしれない。ただ単純化されていない映画、説明をしない映画。ただそれだけかもしれない。映画というのは分かりやすくするために物事を単純化して、それに説明を加える。誰かが「複雑なものを単純に言うのが芸術だ」といったけれど、映画もひとつの芸術として複雑なものを単純に語る。それはわかりやすくという意味で単純に。しかしアルモドバルの単純化は「分かりやすさ」に主眼を置かない。「おもしろさ」に主眼を置き、複雑な物事を面白くするために単純化する。だからわかりやすさという点ではちっとも単純化されていない。むしろ、分かりやすいために必要なものを省いてしまうために分かりにくくなってしまう。だから理解しようとするとちっともわけがわからない。この映画も物語だけを追うんだったら、多分15分くらいで終わってしまうだろう。
 だから、全く物語とは無関係な面白い場面がたくさんある。キカがフアナをメイクするその2人の関係とか、警察とか、アンドレアの番組の内容とかいろいろ。そのそれぞれがプロットにどう関わってくるのかなんてことは気にせずに、あるいはその無関係さに気付きながら見れば、それはまさに子供の心で見れば面白さが詰まっている。警察もポール・バッソのところは相当面白いですね。普通の映画とは全く違う描き方です。キカの反応とか、かなり不思議。
 あと少し気になったのは「十字」。所々に出てくる十字の形状はなんなのか、ラモンの寝室にはキリストをモチーフにしたコラージュが飾ってあるし、全く敬虔とは言いがたいこの映画に顕れるこの神の像は何を意味しているのか? 私はキリスト教徒ではないので、こういうものを描こうとするときにどう神を意識するのかということは想像も出来ませんが、アルモドバルになって想像してみるに、このような映画を作ることが「神」とどのように関わるのかを考えることが彼には必要なのだろうということ。それは見る側に対して「神」に関するメッセージを送るということではなくて、自分にとっての意味付けのようなものを考えるためなのだろうと想像します。あくまで想像ですが…

死んでしまったら私のことなんか誰も話さない

Nadie Hablara de Nosotras Cuando Hayamos Muerto
1995年,スペイン,104分
監督:アグスティン・ディアス・ヤネス
脚本:アグスティン・ディアス・ヤネス
撮影:パコ・フェメニア
音楽:ベルナルド・ボネッティ
出演:ヴィクトリア・アブリル、フェデリコ・ルッピ、ピラル・バルデム

 メキシコのとある場所で麻薬の取引が行われていた。その取引相手の金が贋金ばかりなことに気付いたマフィアは相手が警察であることを見破り、殺し合いに。そこに居合わせた売春婦のグロリアは警察の一人の勧めに従いそこにあったマフィアの裏金の世界中のありかをしるしたファイルを持って逃げ出したが、故郷のスペインへと送還されてしまった。
 複数のプロットが重なり合って重厚なドラマを作り出している秀作。単純なクライムアクションでもなく、ヒューマンドラマでもない生々しい映画。

 ひとつのドラマを作るのに、登場人物に複数の物語を用意すると話は面白くなる。しかし、それらがうまく絡まないと全体として散漫になってしまう。この映画では主人公のグロリアに関して言えば、その複数の物語がうまく絡み合って面白いドラマを生み出している。男の欲望の目にさらされることや、お酒への渇望を克服できないこと。だらしなさややさしさといったもの。様々なことがらが重層的に積み重なってキャラクターが出来上がっているように見える。酔っ払ってスーパーで買い物をするシーンは素晴らしく、そのときのグロリアの表情を見、その気持ちを考えるといたたまれない気持ちになってくる。
 もう一人、マフィアの側の男もいい物語を持っている。だから、この追う男と追われる女の物語はそのおっかけっこ自体が重要なのではなくて、追う男と追われる女それぞれの物語が重要なのである。結局のところその2人のそれぞれがどうなるのかということが興味の対象になるのであって、本来プロットの中心に置かれるべきファイルのことなんてどうでもよくなる。
 私はグロリアが拷問に耐える姿を見て、そのことを思いました。物語の展開がどうなるかよりも、それぞれの人間がどうするのかが重要なんだと。だから、犯罪映画というか、アクション/サスペンスとして見てしまうとちっとも面白くない。のろのろしてて、派手なアクションもないし、すぐわき道にそれるし。
 でも、それぞれの人間についてのドラマとしてみればかなり面白く、深みがあるのです。だからこの映画はいい映画だと断言します。

さて、枝葉のことが2つほど。
 この映画の題名は原題ではおそらく「私」ではなく「私たち」になっていると思います。英語題でもそうなっているので、訳し間違いではなく、なんか理由があってのことと思いますが、私としては「私たち」の方が意味がとおるような気がします。語呂が悪いのかなぁ? そんなことないよな。
 2つめ、この監督さんはこの映画が初監督作品ですが、私は結構期待できる気がしたので、いろいろ調べたところ、いまペネロペ・クルス主演で映画を撮っているらしい。しかもスペインにとどまっているらしいので、期待できるかもしれません。スペインといえば、ビクトル・エリセの寡作ぶりが思い浮かびますが、この監督もそういう人なのかしら。

ミラクル・ペティント

El Milagro de P.Tinto
1998年,スペイン,106分
監督:ハヴィエル・フェセル
脚本:ヘヴィエル・フェセル、ギジェルモ・フェセル
出演:ルイス・シヘス、シルヴィア・カサノヴァ、パブロ・ピネド

 スペインの片田舎に住むペティントが宇宙服を着た息子を見送る。子供の頃から大家族の父親になることを夢見ていたペティントは、盲目の少女オリヴィアと知り合う。10数年後見事に結婚したものの、二人は子宝に恵まれず、時ばかりがすぎていった…
 あらすじを話すのもなかなか難しいスペインらしいわけのわからなさを持つファンタジー映画。とにかくシュールというか、わけのわからない笑いを求めている人にはぴったり。

 面白いとえいば面白いのだけれど、わけがわからなすぎるという面もある。映像へのこだわりは感じられる(といっても、斬新なというよりはきれいな映像を求めている)。
 一番いいと思ったのは、25年に一度通るという電車ですね。しかも、その25年が異常に早くすぎる。ペティントさん(そして神父さん)一体いくつなんだあんた! という感じです。うーん、わけがわからないなあ。まあ、でもスペイン(とスペイン語圏)のこのわけのわからなさは好きです。わざとわけがわからなくしているように見えるけど、彼らにしてみれば現実とは本当にこういうものなのかもしれないとも思います。パンチョが本当に黒人だっていいじゃないか。皆が自分の見ているものが現実で、みんなが同じように見ていると信じているけれど、本当にそうなのか? 本当はみんなまったく違う現実を見ているんじゃないだろうか? そんなことを思ってしまいました。

ベンゴ

Vengo
2000年,スペイン=フランス,89分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:ティエリー・ブジェ
音楽:アマリエ・デュ・シャッセ
出演:アントニオ・カナーレス、ビリャサン・ロドリゲス、アントニオ・ペレス・デチェント、フアン・ルイス・コリエンテス

 アンダルシアの小さな町で開かれるパーティー、それを主催するカコ。彼は体の不自由な甥ディエゴを溺愛し、娼婦の世話までしようとする。しかし陽気に振舞う2人はカコの娘ペパの面影を忘れることができなかった。
 途切れなくフラメンコの音楽がかかり、情熱的に迫ってくるこの映画は「観る」というより「浴びる」のがいい。

 映画を「浴びる」。圧倒的に迫る音楽は冷静に映画を見せてはくれない。ひたすらに降り注ぐ音楽と映像を浴び、その中に浸り、それによって押し付けられる感情に浸る。否応なく感じさせられる怒りあるいは苦悩にもいらだつよりは身を任せ、映画が押し進むその方向に押し流されていくことで何とか映画を消化できる。
 連続するクロースアップや(過度といっていいほどに)雄弁にものを語る登場人物の表情が暴力的ではあるけれど確実に見るものの感情をコントロールする。
 という映画です。確かに力強いけれど、ちょっと暴力的過ぎるかなという気がします(内容ではなく映画として)。そして音楽の映画ということで、さすがに音楽は素晴らしいですが、演奏シーンはすごく長い。兵隊が寄ってくるところのようにちょっとまわりにエピソードを加えたり、カコの夢と現の間のようなシーンみたいに映像的な工夫がなされているとその長さも苦にならないのだけれど、ひたすら演奏を映しているシーンはちょっと長すぎるかなという気はしました。
 音楽に浸って忘我したいという気分にはぴったりかもしれません。プロットもそれなりに練られていたし。やはりガトリフは自分の世界をしっかりと構築しているので、着実にいい作品を作ります。大きくはずすことはない。この映画はガトリフとしてはちょっと平凡な映画になってしまった感も無きにしも非ずですが、これが彼の世界なのでしょう。

オール・アバウト・マイ・マザー

Todo sobre mi Madore
1998年,スペイン,101分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アフォンソ・ベアト
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:セシリア・ロス、アントニア・サン・ファン、マリア・パレデス、ペネロペ・クルス

 マドリードで最愛の息子エステバンと2人で暮らすマヌエルは息子の17歳の誕生日に、芝居を見に行く。エステバンは大好きな女優ウマ・ロッホのサインを貰おうと土砂降りの中楽屋口で待っていた。そんな息子に、秘密にしていた父親の秘密を話そうとしたとき、楽屋口からウマが出てきて、タクシーに乗る、そのタクシーを追ったエステバンの後ろから一台の車が…
 カルト映画の巨匠として活躍してきたアルモドバルがついに放ったメガヒット。決して商業主義に走ったわけではなく、一皮向けたアルモドバルの映画がそこにはある。基本的には感動物語という感じだが、それだけではとどまらない深みをもった映画。

 この映画の切り口はたくさんありそうだ、一番よく言われるのは「女性」ということ。もちろんアルモドバルは映画の最後ですべての女性たちに献辞を捧げたのだから、これが「女性」の映画であることは確かである。しかしそれは必ず「女性」(カッコつきの女性)でなくてはならない、あるいは「本物の女性」でなくてはならない。アグラーダが舞台の上で言った「本物の女性」。そんな「本物の女性」のための映画なのだ。私がその「本物の女性」のイメージにぴたりとくるのは、この映画の中のマリサ・パレデス、そして献辞が捧げられていたひとりであるジーナ・ローランズ。
 おっと、あまり書くつもりじゃなかった「女性」の話にいってしまいましたが、要は同性愛者だとか何だとかそんな意識は捨てちまえということです(飛躍しすぎ)。その同性愛という部分(それはあからさまにはでてこないのだけれど、この映画の登場人物たちはみんながみんな少なからぬ同性愛的セクシャリティを抱えている)が非常に自然に映画の中に取り込まれているのもすごいところです。アルモドバル自身、ホモセクシュアルだという話ですが、だから描けるということはいえないわけで、同性愛に関する何らかのメッセージをあからさまにこめようとすると監督たち(ホモでもヘテロでも)とは明らかに違う力があります。
 さて、この映画は物語だけでなく、映像的にもかなりいいですね。音楽もいいし。映像的に言うと、接写が多い。クロースアップというよりは接写。これはかなり大画面を想定した設定だと思いますが、不思議なものをクロースアップしてみたりする。よくわからないものとかね。あとは構図ですね。特に人の配置が面白い、立っている人と寝ている人とか、立っている人と座っている人といった対比的な配置の仕方をしたり、鏡を使ったりすることで、構図に立体感が出というか、縦横斜めにいろいろな流れが出来る。たとえば、ウマがマヌエルの部屋にやってきた場面で、マヌエルとロサがソファーにいて、ロサがねっころがっている。そうすると、ロサの上には必然的に空白の空間が出来てくるわけで、その人と空白のバランスがとてもいいのですよ。そう、そういうこと。

ロルカ、暗殺の丘

Death in Granada
1997年,スペイン=アメリカ,114分
監督:マルコス・スリナガ
脚本:マルコス・スリナガ、ホアン・アントニオ・ラモス、ニール・コーエン
撮影:ファン・ルイス=アンシア
音楽:マーク・マッケンジー
出演:アンディ・ガルシア、イーサイ・モラレス、エドワード・ジェームズ・オルモス、ジャンカルロ・ジャンニーニ

 1950年代のプエルトリコ、そこに住む小説家の若者リカルドはスペインのグラナダで生まれ育ち、内戦に際して家族で移住してきたのだった。そして、リカルドはスペインにいた頃、ない戦中に謎の死を遂げた詩人ロルカに一度だけ会って話をしたことがあった。そんな彼は今、スペインの詩人たちについての文章を書いている。そこで彼は、ロルカの死の謎を解明するため父親の反対を押し切ってスペインに向かった。
 いまだフランコ政権下にあるスペインを舞台にすることで、謎の解明という物語にサスペンスの要素を入れ込むことが出来たのがミソ。これがなければ退屈な映画になってしまっていたかもしれない。なかなかよく出来た映画がです。

 終わってみればなんとなくあやふやだったあれもこれも納得がいき、サスペンスとしては非常にうまくまとまっているでしょう。
 しかし、根本的なところで、主人公がなぜそこまでロルカを殺した人が誰かということにこだわるのかがつかめなかった。だから、映画の勢いに乗ってしまえばすごく面白くみれるのだろうけれど、一度そこに引っかかってしまうとなかなか入り込めないのかもしれないとも思いました。
 もうひとつわからなかったのは、出てくる人みんなの「目」。みんながみんなすごくもの言いたげな目をしていて、しかし何も言わない。でも、このわからなさはいいわからなさですね。この「何か言いたいけどいえない目」というのがこの映画のすべてを象徴するものであるということになるのでしょう。そしてほとんどの人は最後まで何も言わない。このあたりがかなり巧妙に計算されている気がしましたね。ちょっと多すぎたかなという気もしましたが、効果を損ねるほど濫用しているわけではないと思うのでよしとしましょう。
 というわけで、この映画は「目」の映画。「目」でいかにものを語るか、言葉だけが物事を語るのではないという、わかりきっているようでなかなか実感出来ないことをなかなかうまく表現した映画だったと思います。

タクシー

Taxi
1996年,スペイン=フランス,114分
監督:カルロス・サウラ
脚本:サンティアゴ・タベルネロ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジプシー・キングス、マノ・ネグラ
出演:イングリッド・ルビオ、アガタ・リス、エウサビオ・ラサロ、カルロス・フエンテス

 タクシー・ドライバーのレメはある夜、ある薬注の女性を拾う。女性が寝入ってしまうと、彼女は運転手の仲間“ファミリア”に連絡し、彼らは橋の上で落ち合った。彼らは女性を車から引きずり出し、橋から投げ落とした。
 一方、タクシー・ドライバーのべラスこの娘パスは大学の入学試験に不合格、自暴自棄になって髪の毛をスキンヘッドにしてしまう。その娘を見た父は彼女をタクシーに乗せようと考えた。
 スペインで良質の作品を撮りつづけるサウラ監督が、移民・差別・ネオナチと言った社会問題を、タクシー・ドライバーというユニークな視点から、サスペンス調で描いた映画。まじめです。

 社会問題を映画で取り上げるというのは難しいことなのだけれど、この映画はタクシー・ドライバーをその中心に据えたことでかなり成功している。まさしく発想勝ちなのだろうか。
 しかし、脚本がどうも今ひとつ。パスとダニがはじめてキスをする場面、二人は星がどうだのという話をしたりするが、あまりにあんまりだ(なんのこっちゃ)陳腐というか、何というか、ねらいだとしたら外れているし、本当にあのセリフがしゃれていると思っているなら、もっと映画見ろ!という感じ。
 そんな脚本のつたなさに邪魔されながらも鋭敏な映像はカルロス・サウラの本領発揮。特に印象に残ったのは、フレームの右隅にテレビの画面があって、奥でパスがご飯を食べているシーンと、寝ているパス(目は開けている)が暗闇から徐々に浮かび上がり、カメラも徐々によっていくシーン。最後の、カレロが死んでいるシーンもなかなか。全体的に言っても、構図がきれいで、タクシーに拘泥するならば窓ガラスへの映り込みを非常にうまく使っていて、トーンは暗いけれど、美しい画面でした。
 という感じです。発想はよし、映像もよし。しかし脚本がちょっと…

バチ当たり修道院の最期

Entre Tinieblass
1983年,スペイン,100分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アンヘル・ルイス=フェルナンデス
音楽:カム・エスパーニャ
出演:クリスチーナ・サンチェス・パスカル、フリエタ・セラーノ、カルメン・サウラ、マリサ・パレデス

 麻薬で恋人を死なせてしまった歌手ヨランダは、以前もらった名詞を思い出して、それを頼りに「駆け込み寺」を訪ねてみる。しかし行ってみるとそこの修道院は財政難で閉鎖寸前、修道尼たちもわけのわからぬ人ばかり。
 5人のハチャメチャな尼僧たちの生活を淡々と映すアルモドバル監督のキッチュななコメディ。アルモドバル監督はこれが二作目だが、この作品を機に国際的評価を高めたといえる。確かにそれぞれの尼僧の個性がよくできていて、くだらなくもあり、しかし下品ではなく、不思議にバランスの取れた映画だった。 

 修道院にトラがいて、尼長はヤク中で、尼僧の一人は隠れて官能小説を書いていて、しかもベストセラー作家で、ホテルのような部屋があって、などなどと本当にハチャメチャな設定だが、これが必ずしも教会や修道院に対する皮肉ではなく(と信じたい)、純粋に笑いの要素として扱えているところがすごい。
 この映画から思い出されるのはやはり「天使にラブソングを」か。こちらも同じような設定のコメディだが、どちらかというと主役のウーピー・ゴールドバーグのキャラばかりが立っていて、周りの修道女たちがいまいちパンチに欠けるという感じがする。それと比べると、この映画は主人公のヨランダよりむしろ回りの修道女たちが笑いの中心で、それぞれが強烈なキャラクターを持っている。この辺がこの映画の不思議な魅力の秘密だろうか?