ポーラX

Pola X
1999年,フランス=ドイツ=スイス=日本,134分
監督:レオス・カラックス
原作:ハーマン・メルヴィル
脚本:レオス・カラックス、ジャン・ポル・ファルゴー、ローランド・セドフスキー
撮影:エリック・ゴーティエ
音楽:スコット・ウォーカー
出演:ギョーム・ド・パルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ、カテリーナ・ゴルベワ、デルフィーヌ・シュイヨー

 フランス・ノルマンディ、古城で暮らす小説家のピエール。正体を明かさぬまま小説を出版し、成功した彼は婚約者のリュシーとも仲良く付き合っていた。しかし、母マリーのところには無言電話がかかり、ピエールの周りには謎の黒髪の女がうろついていた。
 レオス・カラックスがハーマン・メルヴィルの『ピエール』を映画化。2つの天才と狂気がであったこの作品は全編にわたってすさまじい緊張感が漂う。「ポンヌフの恋人」とは違うカラックスらしさがぐいぐいと迫ってくる作品。

 陽光にあふれた昼と、街灯の明かりすらまばらな夜。この昼と夜、明と暗の対比がこの映画の全てを語る。最初は多かった明の部分が物語が進むに連れて陰っていく。リュシーのブロンドとイザベルの黒髪までも明と暗を比喩的に表しているのではないかという思いが頭をかすめる。暗闇から現れたイザベルに、暗闇で語られたことによって、ピエールはぐんぐん闇へと引きずり込まれる。ここで暗闇は狂気と隣り合わせの空間で、明の象徴であったはずのリュシーまでも暗部へと引きずり込む。
 映っているものすらはっきりしないほど暗い画面は見ている側に緊張を強いる。そして、カットとカットの繋ぎの違和感が焦燥感をあおる。エレキギターとパーカッションで奏でられる交響曲もわれわれの神経を休めはしない。ただいらいらしながら、結局何も解決しないであろう結末を予想しつつも、ことの成り行きをみつめる。
 「汚れた血」は厳しすぎ、「ポンヌフの恋人」はゆるすぎたと感じる私はこの「ポーラX」がぐっときた。どれもカラックスの世界であり、同じ描き方をしているのだけれど、狂気と正気のバランスというか、物語と映像のバランスというか、その偏りがちょうどいい感じ。
 カラックスの映画はカットとカットの間がスムーズにつながらないところが多々あって、この違和感というのは相当に見ている側にストレスになると思う。それがカラックスの映画の緊張感の秘密だと私は思います。この映画でいえば、一番はっきりと気づいたのはピエールとティボーがカフェで会っている場面。ティボーがカウンターに行って、ティボーの視点でピエールを(正面から)映すカットがあって、次のカットで画面全体をバスが横切り、その次のカットではピエールを後ろから映す。これは後ろからのぞいているイザベルの視点であることが直後にわかるのだけれど、この瞬間には「え?」という戸惑いが残る。こんな風に見ている側をふっと立ち止まらせ、映画に入り込むことを拒否するような姿勢が緊張感を生み、カラックスらしさとなっているのではないでしょうか。

汚れた血

Mouvais Sang
1986年,フランス,125分
監督:レオス・カラックス
脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
音楽:ベンジャミン・ブリテン、セルゲイ・プロコフィエフ、シャルル・アズナヴール、デヴィッド・ボウイ、セルジュ・レジアニ
出演:ミシェル・ピッコリ、ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ、ジュリー・デルピー

 ハレー彗星の影響で異常気象に見舞われるパリ、マルクはメトロで自殺した仲間のジャンの死を怪しみ、「アメリカ女」がやったのではないかと疑う。しかし、マルクは「アメリカ女」への借金を返さねばならず、そのためには製薬会社に忍び込む必要があった。彼はジャンと同じく手先が器用なジャンの息子アレックスを誘おうと考えた。
 「ポンヌフの恋人」「ポーラX」のレオス・カラックスが世界的認知を得た作品。徹底的に作りこまれた映像美と難解な物語が独特の世界を作り出す。

 確かにこの作品はすごいんですが、あまり「すごい、すごい」と言われすぎている気もするので、へそ曲がりな私としてはちょっと文句をつけてみたくなるわけです。
 最初のあたりはかなりゴダールの影響を感じさせるモンタージュで始まり、しかし、アップの多用や普通のギャング映画のような物語が進行しそうで、「ちょっと違うのかな」と思わせる。この最初のシーンはかなりいい。年寄りばかりで構成したのも非常に面白い。
 次のシーンもなかなかいい。  しかし、その後映画が進むにつれ、物語としては魅力を失っていき、映像も「作り込み」が目に余るようになってくる。特に気になったのは映像で、新しいことをやろうという気持ちも、なにをやりたいのかもわかるし、確かに面白い構図なのだけれど、作りこみすぎて「自然さ」が失われてしまっているように見える。それは構図を守るために動きを奪われてしまったことからくるのだろう。たとえば、アナのアップの後ろでアレックスが動いているシーンがあって、最初は奥のアレックスにピントがあっていて、画面の3分の2を占めるアナはぼやけている。それが、突然ピントが切り替えられるのだけれど、そのためにアレックスの動きが非常に制限されてしまっている。その「構図のために人を動かしている」っていうのが、どうもね、気に入らないというか、そっちに目がいっちゃって映画の中に入り込みきれないというか、そんな居心地の悪さがあるんですね。
 とはいってもやはり、いい映画ではある。アレックスがデヴィッド・ボウイにのって疾走するシーンなどなどいいシーンはたくさんあるし、この監督はなんといっても女優の使い方がうまい。当時ほとんど無名だったジュリー・デルピーをうまく使っている。
 いわゆる「アート系」と呼ばれる映画だと思うんですが、その中でもかなり時代の先を行っていたのだなと感じるわけです。この映画にいたく感動する人の気持ちもわかります。
 私にはそこまでの真面目さがないということなのかな?