ワンダフルライフ

1999年,日本,118分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
音楽:笠松泰洋
出演:ARATA、小田エリカ、寺島進、内藤剛志、谷啓、伊勢谷友介、香川京子、阿部サダヲ

 死んだ人が、まず行くところ。それは生前の一番の想い出を唯一の記憶とするためにそれを再現する場所だった。その場所で働く人々を中心に、22人の死んだばかりの人々との対話を描いたファンタジックなヒューマンドラマ。
 ドキュメンタリー畑出身の是枝監督らしいドキュメンタリーに傾いた描写がそこここに見られる。発想もユニークで面白いので、すっと映画に入りやすい。

 それぞれの人がその想い出を考える場面、特に彼らが真正面から固定された画面の中で語る姿はまさにドキュメンタリー風の映像であり、そのそれぞれの思いがこの映画で一番面白い部分。複雑な思いを抱えて死んだ人々の心のほつれがほどけていく過程がうまく表現されているような気がする。
 この映画が素晴らしいのは、映像がどうのというよりも、私たちに語りかけてくること。この映画を見ながら、自分が今死んでしまったら「一番印象に残ったこと」といわれてなんと答えるだろうか? という明確な問いがひとつ投げかけられる。もちろん私たちはまだ死んでいないので、それを考えたところからこれからの「生」に対して何か考えが変わるかもしれない。あるいは変えなくていいんだと気付くかもしれない。そのように今ある「生」に向き合うことこそこの映画がわれわれに投げかけていることなのだろう。この映画を見て、考えてみましょう。「一番印象に残ったこと」とは何か?
 そのあたりは明確です。ちょっと文章で書くと空々しいですが、映画を見れば実感です。さて、映像がどうのといいながら、この映画はとてもきれい。舞台設定がなんか古い学校だか病院っぽいところで、それ自体がフォトジェニック(フィルムジェニック?)なのに加えて、季節が冬というのも印象的です。一番はっとしたのはARATAと小田エリカが雪の中を歩いて建物まで行き、建物の中に入るシーン。ただそれだけのシーンですが、うーんなんかいいんだよね。
 難を言うなら、後半のプロットでしょうか。言ってしまえばなくてもよかった。まあ、あってもマイナスではないし、21人の人々がいなくなって静かになったところでじっくりと見られるという利点はあるけれど、前半のスピード感から一転、急にスローになるので、ちょっと気が抜ける感じもします。個人的な好みとしては、人々がいなくなって、次の人たちがくる。その単純な1サイクルを描くだけでよかった気もします。
 でも、ラストカットはとてもよかった。ということは後半も必要なのかな?

DISTANCE

2000年,日本,132分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
出演:ARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣、浅野忠信

 カルト教団が水道水にウィルスを混ぜ、多数の被害者を出す事件がおきてから3年。3年目のその日、年齢も職業もばらばらな4人が事件の起きた貯水池へと向かう。彼らは事件を起こした後死んでしまった加害者の遺族達。彼はそこで元信者に出会った。
 監督3作目にしてすでに評価の定着した是枝監督は、淡々とした中に複雑な思いを織り込んだ物語をつむぐ。この映画もそんな味わいの作品。
 「グループ魂」でおなじみ大人計画の村杉さんも出演。

 いくつかのテレビドキュメンタリーを手がけてきた是枝監督ならではのドキュメンタリー要素を取り込んだ作品。カメラマンもTVドキュメンタリーで有名な山崎裕を「ワンダフル・ライフ」に続いて起用。手持ちカメラの映像がドキュメンタリーらしさをさらに演出する。
 私はいつも最近のいわゆる「ドキュメンタリータッチ」を毛嫌いしていますが、この作品は違う。ドキュメンタリーとフィクションの違いとわれわれが思う一番多い要素はドキュメンタリーの予測不可能性で、シナリオがないドキュメンタリーでは計算どうりに映像を作り上げることはできないということである。いわゆるドキュメンタリータッチのフィクションの多くはその予測不可能性を演出によって作り出そうとすることでそこに幾らかの「うそ臭さ」が漂ってしまう。
 この映画は脚本の時点で細かいセリフやカメラ割の指定を排除することで、予測不可能性を作り出す。つまりカメラを回し始めるとき、そこで何が起こるのかの予測が不可能であるわけだ。もちろん、設定や人物の位置や動くタイミングなどは決められているし、うまく取れなければ取り直しをするということだろうが、ここで実現されるのは意外性のある映像である。
 監督の頭の中で作品が組み立てられ、その要素をとっていくという典型的なフィクションの手法はここでは取られない。ある種の意外性が監督の頭の中のイメージに付加されていくことで映画自体に様々な価値が加わってくる。これは是枝監督がドキュメンタリーとフィクションを融合させるということを実現させつつあることの証明なのかもしれない。
 前もってドキュメンタリーであるかフィクションであるかを告げられない限り、単純に見ただけではその区別をつけることは難しい場合がある。つまりフィクションとドキュメンタリーの間には映画としての絶対的区別は存在しない。そのそもそも存在しないはずの区別によって意味もなく分類されているドキュメンタリーとフィクションというの境界を消滅させつつあるのがこの映画なのかもしれない。