Carne
1994年,フランス,40分
監督:ギャスパー・ノエ
脚本:ギャスパー・ノエ
撮影:ドミニク・コラン
出演:フィリップ・ナオン、ブランディーヌ・ルノワール、フランキー・バン

 馬肉の店を経営する男。妻は娘を置いて家を出た。それ以来ひとりで娘を育て、男は娘を溺愛した。娘は非常に無口だった。
 最初からテキストから始まり、馬の屠殺シーンが続く。冒頭から普通の映画ではないことを主張するこの映画は、どこかゴダールのような雰囲気があり、しかし明らかにそれとは違うオリジナルなリズムを持っている。実験的ではあるけれど、決してわけがわからないわけではなく、物語自体にも十分魅力がある。40分という時間に凝縮された世界はかなりすごい。

 最初のうちは文字画面がけっこう使われて、そこに効果音があってゴダールっぽい(特に娘の成長を追って月日が経って行くところ)。しかし、全体的な雰囲気はゴダールのポップ(といっていいのかな?)な雰囲気とは違い薄暗い感じ。 それでもかなり傾向として似ているのかなという感じを受けるのは、構図へのこだわり。この作品で何はともあれ最も気になるのは顔のない構図。あるいは顔の下半分の構図。会話の切り返しなんかでも、鼻から下だけを映して切り返しをしたりする。それは非常に目に付く。始まってからしばらくはまったく顔が映らないということもあるし。
 そのあたりはかなり面白い。そして、それで明白な何かを伝えようとするよりはなんとなく不思議な感じを与える、ほの暗い感じを与える効果を生む。それは奥行きの表現の仕方にもいえる。普通、奥行きというのは画面の真中の線を基準に表現されるのだけれど、この映画では斜めに奥行きがよく使われる。簡単に言えば、道が画面の左下から右上に伸びているような画面。素直な表現だと道は画面の左右か上下に伸びるものだが、この映画では斜めであることが多い。ここにもひとつの作為が感じられる。この構図の感じは… 行き詰まっている感じかな。 どうも、「感じ」という表現が多くなってしまいましたが、それはこの映画が感性のというか抽象的な映画であるから。それは何かを説明しようというのではなく、感知させようとする映画であるから。言葉や人間の行動で人間の感情や心理を表現するのではなく、構図やつなぎで表現する映画であるからです。だから娘はしゃべる必要はない。

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