Los Amantes del Circulo Polar
1998年,スペイン,112分
監督:フリオ・メデム
脚本:フリオ・メデム、エンリケ・ロペス・ラビニュ
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ナイワ・ニムリ、フェレ・マルティネス、サラ・バリアンテ

 8歳の少年オットーは飛んでいってしまったサッカーボールを追っていって、一人の少女アナに出会う。ある日オットーが授業を抜け出してトイレから飛ばした紙飛行機がきっかけで、オットーの離婚した父とアナの母が仲良くなり、毎日2人はオットーの父の車で帰宅することになった…
 「偶然」と「運命」が動かすアナとオットーの2人のおとぎ話。女性には非常に受けると思います。

 物語を語る際に視点をどこに置くかというのは大きな問題で、多くの映画は観客に<神>の視点を与えます。あちらこちらに遍在し、時には人の心理までも見えてしまう。そのような存在。しかしたまに1人の視点で語られることもあります。これは主にサスペンスなどの謎解きものに多い。「メメント」なんかがいい例だと思います。この映画はその1人の視点を2つ組み合わせたもの。オットーの視点から語られた後、同じ時間がアナの視点から語られるというパターン。
 展開を面白くするためには<神>の視点の方が有効だと思うんですが、2人の関係性に焦点を絞るなら、こういう方法もありかなという気がします。この方法をとると、映画全体が完全に2人の世界となってしまい、ほかの人との関係性が薄まってしまう。結構フォーカスされているオットーと母親の関係やアナの母親のオットーに対する心理などはあまり浮き出てこない。このあたりは<神>の視点に慣らされてしまっているわれわれには何か消化不良な感じもしてしまいます。
 今日は視点という問題に絞ってきたのでさらに行きます。
 それにしても映画はこれまであまりに<神>の視点に頼りすぎてきた。「メメント」がヒットしたのはそのすべてが見えてしまう映画とは違うものであるからだと思います。小説の世界では何世紀も前から「視点」という問題が語られ、様々な視点が試みられてきましたが、映画ではそのような試みはあまりやれられ来ていない気がします。その大きな要因は映画が短いということと観客が基本的の傍観者であるということが考えられます。小説というのは自分のスピードで1人でその世界に没頭することができるので、一人称で語られる主人公にどうかすることが非常に容易ですが、映画は映画が持つスピードにあわせて、しかもたくさんの人とスクリーンを眺める。これでは自然と傍観者等スタンスを取ってしまう。
「メメント」が成功したのはあらかじめ観客の注意を喚起し、映画に対するスタンスを変えてしまったからでしょう。何の予備知識もなくあの映画を見たら結構戸惑ったのではないかと思います。そんな「メメント」でもまったく物語が不十分と感じられるのはその短さ。主人公とって物語が終わっていないのに、映画が終わってしまうのは、主人公と同一化している観客にとっては尻切れトンボ以外の何ものでもないでしょう。
 違う映画の話になってしまったのでこの辺で話を戻して、この映画の場合は物語はきちんと完結しているのでいいのです。でも2人を主人公にすると1人の視点より入り込むのは難しくなる。結局傍観者という立場で見ざるを得なくなると思います。そうなるとこれはただ単に不自由な<神>の視点となってしまう恐れもあり、実際なってしまっているかもしれない。
 それでもラストあたりがうまく作られていて多少救われたと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です