Apocalypse Now Redux
2001年,アメリカ,203分
監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ミリアス
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:カーマイン・コッポラ、フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーティン・シーン、マーロン・ブランド、デニス・ホッパー、ロバート・デュバル、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール

 ベトナム戦争のさなか、一時帰国後サイゴンで腐っていた陸軍情報部のウィラード大尉が上層部に呼ばれる。彼の新たな任務は現地の兵士たちを組織して独自の作戦行動をとるようになってしまったカーツ大佐を探し出し、抹殺するというものであった。ウィラード大佐は3人の海兵隊員とともに哨戒艇に乗り込み、ベトナムの奥地へと向かう。
 1979年に製作され、コッポラの代表作となったオリジナルに53分の未公開シーンを加えた完全版。恐らくコッポラとしてはそもそもこの長さにしたかったのでしょう。

 この映画がリバイバルされることは非常に意味がある。この映画は「音」の映画であり、この映画の音を体感するには近所迷惑覚悟で、テレビのボリュームを最大にするか、劇場に行くかしなければならない。大音量で聞いたときに小さく聞こえるさまざまな音を聞き逃しては、この映画を本当に経験したことにはならないからだ。
 音の重要性はシーンのつなぎの部分の音の使い方からもわかる。この映画はシーンとシーンを音でつなぐことが多い。シーンとシーンの間で映像は飛んでいるけれど音は繋がっている。というようなシーンが非常に多い。あるいは、シーンの切れ目で音がプツリと切れる急な落差。そのように音を使われると、見ている側も音に敏感にならざるを得ない。そのように敏感になった耳はマーロン・ブランドのアタマを撫ぜる音を強く印象づける。
 ウィラード大尉の旅は一種のオデュッセイア的旅であるのかもしれない。そう思ったのは川を遡る途中で突然表れた浩々とともる照明灯。それを見た瞬間、「これはセイレンの魔女だ」という直感がひらめいた。もちろんウィラード大尉はオデュッセイアとは異なり、我が家へ、妻のもとへと帰ろうとするわけではない。彼は殺すべきターゲットのもとに、いわば一人の敵のもとへと向かうのだ。しかし、その旅の途上で彼はカーツ大佐に対して一種の尊敬の念を抱くようになる。しかも、彼は帰るべき我が家を失ってしまっていた。一度我が家であるはずの所に帰ったにもかかわらず、そこは落ち着ける所では無くなってしまっていた。そんな彼が目指すべき我が家とはいったいどこにあるのというのか?
 またその旅は、現実から遠く離れてゆく旅でもある。川を上れば上るほど、ベトナムから遠く離れた人々が考える現実とは乖離した世界が展開されて行く。果たしてベトナムにいないだれが軍の規律を完全に失ってしまった米軍の拠点があると考えるだろうか? ベトナムから離れた人たちにとっては最も現実的であるはずの前線がベトナムの中では最も現実ばなれした場所であるというのは非常に興味深い。
 そもそも戦争における現実とはなんなのか? 戦争において現実の対極にあるものはなんなのか? 狂気? 狂気こそが戦争において唯一現実的なものなのかもしれない。 恐怖? 恐怖は戦場では常に現実としてあるものなのだろうか? 

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