2011年3月11日に起きた東日本大震災、大槌町出身の大久保さんは震災後に大槌町に入り、街の惨状を撮影する。その映像と、過去の地元の祭やホームビデオの映像を組み合わせた作品。
震災前と震災後がオーバーラップすることでこの震災がどのようなものであったかを浮かび上がらせる。

槌音 

この作品の視線は「被災者」からのものであり、同時上映の『大津波のあとに』との違いは明らかだ。『大津波のあとに』のカメラはおずおずと探るように被災地を進んでいくが、この『槌音』のカメラはその先にあるものを確認しなくてはいられないという「焦り」に突き動かされてズンズン進んでいく。
その焦りながら撮影された風景に、そこが本来そうであったはずの風景が連なり、さらに現在の風景に過去の音声がかぶさることで、なにか「亡霊」が映っているような錯覚にとらわれる。私は見ながら、この人の家族はもしかしたら全員なくなってしまったのではないかという恐れすら抱いた。

この映画から感じられるのは喪失感であり、この映像がとどめようとしているのは、震災の記憶ではなく、震災前の記憶である。これは震災前のふるさとの姿を忘れないために、自分と他の被災者のために作られた映画なのだ。

被災者でない人たちは『大津波のあとに』を見て、震災直後のことを思い出すだろうが、被災者は『槌音』を見て、震災以前のことを思い出すだろう。同じ「思い出す」ということを観客に促してはいるが、その対象も何もこの2作品は全く異なっている。これをあわせて見ることで、より強く震災に対する思いを持ち続けることができる、そんな気がした。

2011年,日本,23分
監督: 大久保愉伊
撮影: 大久保愉伊

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