1930年代のパリ、父親を亡くした少年ヒューゴは一人で駅の時計の管理をしながら暮らしている。彼は父親が遺した空気人形を修理しようと駅にあるおもちゃ屋で部品を万引きするが、店主に見つかってしまう。そして、父親のノートも取り上げられてしまうが、その老人を追いかけていき、娘のイザベルと知り合う。
少年の小さな冒険を描いたアドベンチャー映画。マーティン・スコセッシ監督初の3D作品。
舞台設定を1930年代という「昔」に設定したのがまずよかった。3D作品というとSFだとかアドベンチャーだとか未来や架空の世界を舞台にしたものが多いけれど、ここに来てかなり成熟してきたことで一般的な映画にも用いられるようになってきた。以前から3D作品を撮りたかったというスコセッシは、舞台を昔に設定し、まず1930年代のパリを3Dで再現することでその技術を自分に引きつけたのではないか。
3Dの映像は「迫力」がフォーカスされてその効果を狙って使われることが多いが、スコセッシが狙ったのは「リアリティ」であり、記録に残すことは出来なかった当時を再現することだった。
映画の方は駅で一人で暮らす少年が少女と老人と出会い、父親の遺した機会人形を直すために奮闘するという物語。少年の成長物語であり、少年の素直さによって周囲が自分を見つめ直すという人間ドラマでもある。が、まあこの主プロットの方ははっきり言ってどうということはない。この映画は子供向けの映画の外見をしているので、このような子どもが入り込みやすい物語構造を持っているわけだが、大人が見る分にはこの物語の部分はどうでもいいのではないか。もちろん面白くないわけではなく、映画を展開していく軸としては十分機能しているのだが、その物語にハラハラやドキドキを感じることはあまりないだろう。
この映画がほんとうに面白いのは、これがジョルジュ・メリエスの映画であるからだろう。この映画で描かれているのがどこまで事実かはわからないが、メリエスが映画界から姿を消し、その作品の多くが長い間埋もれていたことは事実だ。そのメリエスを再発見し、再び観客の前に立たせる、その物語こそがこの映画の眼目なのだ。
もちろん「メリエスなんて知らない」という人もいるだろう『月世界旅行』という映画の存在は知っている人が多いだろうが、いったいどれだけの人が自分の目で見ているのか、メリエスの映画は今見ると非常に稚拙なものにも見える。しかし、彼のやっていることは今にも通じる映画の根本的な技法である。
メリエスが映画を作っていた頃とうのはもちろん映画はサイレントで白黒だった、それが今はもちろんカラーで、3Dで、サラウンドまである。技術的には月とスッポンだが、結局やっていることは変わらないということをスコセッシは言おうとしているようにも思える。スコセッシがずっと使いたかったという3Dをもしメリエスが使えたとしたら彼はいったい何をやったろうか?映画の技法を探求した先輩としてスコセッシはメリエスに大いなる敬意を払い、初めての3D作品を彼に捧げたのだろう。
少々ネタバレになるが、非常に印象的だったので書くが、ヒューゴがメリエス(とはまだ知らないが)の家に行き、隠されていた箱をタンスから取り出すシーン、はからずも箱の蓋が開いてしまい中の物が飛び出してくるのだが、そのシーンの3Dの使い方がほんとうに見事だった。セリフも入らない結構長いシーンだが、そこには映画の長い歴史が詰まり、3Dにまで至る映画の発展をスタートさせたのはメリエスだったのだというメッセージがしっかりと込められていると感じた。
この映画を見て、メリエスに興味を持った人はぜひ映画史を紐解いて、今に至る映画の歴史の豊穣さ、素晴らしさに目を見張って欲しい。
2011年,アメリカ,126分
監督: マーティン・スコセッシ
原作: ブライアン・セルズニック
脚本: ジョン・ローガン
撮影: ロバート・リチャードソン
音楽: ハワード・ショア
出演: エイサ・バターフィールド、エミリー・モーティマー、クリストファー・リー、クロエ・グレース・モレッツ、サシャ・バロン・コーエン、ジュード・ロウ、ヘレン・マックロリー、ベン・キングズレー、レイ・ウィンストン
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