東日本大震災の発生から2週間後、映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治の4人は1台の車で福島に向かった。何をすればいいのかわからない中、とにかく現地に行ってその目で観て映像に記録する、ただそれだけのためにはじめた旅。福島から宮城、岩手へと旅を続けた彼らは自らを省みるためこれを公開することを選ぶ。
未曾有の災害を前にマスメディアのあり方を自ら問い直した問題作。観る者にも「その時」を問いかける。

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(C) 森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治

 

この映画、前半はなんだか違和感がある、というか「何だこいつらは」という不快感すらある。彼らは最初に福島に入るとき、ガイガーカウンターを持ってはいるものの、計り方の知識も定かではなく、何が待ち受けるのかもわからないからか、不安あるいは恐怖によって変にテンションが高い。そしてそれをおもしろがっているようにも見え、妙にテンションが高い。そして避難区域内でちょっとしたアクシデントに襲われてすごすごと福島を後にする。

そして津波の被災地に入っても圧倒的な瓦礫の山を目にした彼らの口から出るのは「うわー」や「うぉー」という唸りばかり。もちろん最初に断られているようにこの映像はあくまで記録のためであり、誰かに見せることは想定されていないのでこのようなものになるわけだが、それはつまりこれが彼らの素の反応であり本音の行動であるということだ。

結局のところ彼らは、メディアといういわば特権的な立場にあるために他の人達が入れない場所に入り、その様子を記録できるということにある種の優越感を感じていたということだ。

それがなんと話に感じる不快感に繋がったわけだが、その不快感の元を理解できるのは彼らが自分自身のそのようなあり方を審らかにしているからでもある。彼らは津波の被災地で亡くなった子どもの遺体を探す遺族たちに出会うことで自らを省み、そのような態度を改める。

それでも彼らは最後に見つかった遺体の検証現場を映そうとして被災者の一人に角材を投げつけられる。このシーンは被災者たちのマスコミに対する不信感を象徴的に示している。しかし、私はこのシーンにつながるもう一つのシーンに注目した。それは、子どもの遺体を探す母親が「怒りをぶつける先がない」というのに対して森監督が「言葉にできるなら僕にぶつけてください。そういう役割ですから」というようなことを言うシーンだ。母親は実際には怒りをぶつけることなくこのシーンは終わるが、このシーンが意味するのは、彼らが(あるいは森監督が)メディアとして野次馬根性で記録することをやめ、生身の人間として被災者の辛さを少しでも引き受けようとしているように見えた。

そこから考えると、最後にシーンも怒りの矛先を自分たちに向けることで少しでも彼らの辛さを引き受けようとしたのではないかと思えた。もちろんそれが本当に彼らのためになるかどうかはわからない。しかし、自分自身を顧みると、この映画はもちろん様々な津波の映像や被災者へのインタビューに「スペクタクル」を求めていたのではないか、そのスペクタクルを求めるわれわれの代弁者としてマスコミは被災地で行動していたのではないか。私達もみずからの野次馬根性を素直に認めてそれについて考えるべきではないか。

この映画は4人が自らの人間としての未熟さを晒した作品だと思う。しかし私たちは誰しも未熟な人間なのだ。それを「絆」とかいう言葉でごまかすのではなく、未熟ななりにできることは何かを考える。考えて考えて行動したとしてもやはり未熟だから失敗することもある。でもその失敗は他の未熟者の教訓には成り得る。この映画はそんな未熟者のための先例のひとつであり、私たちはここからまた「何ができるのか」を考えて行かなければいけない。

2011年,日本,92分
監督: 安岡卓治、松林要樹、森達也、綿井健陽
撮影: 安岡卓治、松林要樹、森達也、綿井健陽

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